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http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000315.html
のところは1928年にできた運河の水門だったらしい。その後運河計画が無くなり、今は産業遺産になっています。名古屋にもこんな立派な水門がありました。味の素の広い敷地はすべて埋め立てかな。
ここは相模国ではなく、武蔵国だったのか。
人口140万人は、山梨県80万の培近い。
米軍空爆で戦前の建築が一切無いのと、埋め立て工業地帯の印象が強いけど、歴史ある町だった。
広い川幅の多摩川。今は橋があるけど、無かったらどうやって渡ろうか、と、岸辺でずっと考えていた。その源流は甲斐の塩山一ノ瀬。何度か跨いだ。
川崎訪問は15年ぶり。
おはようございます。
その多摩川の渡河点は鎌倉のころから重要視されていました。弓矢の家(武家)には渡河可能な場所、使いやすい陣地など、口伝もしくは文書で伝えられていたんです。武家を捨てて出家する人は所領の相続権以外に、家の機密も焼き捨ててから坊様になったそうです。
後世には渡河点近くには、必ず城が築かれて管理していたそうで、多摩川べりを調べると、小規模な城が見れるかと思います。
今回川崎の中世史なんかも少し見たら、結構城があるんですね。今の河口は一本化されて深い流れになっていますが、これだけの大河だから、海近くでは枝分かれして浅くなっている。でも何カ所かは深いんでしょう。ネパールやパキでそんなデカい川の徒渉点を探しました。こっそり渡ると弓で射殺されたんだろうなあ。でもどうして右岸側も武蔵国だったのかな。
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