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そこを訪ねたら二階が広く屋根の高い甲州切妻屋根造り(かぶと造り)の小さな集落が点々としていて、お伽の国みたいでした。150年前から昭和60年までは養蚕が行われていたのでその構造の住宅なのだそうです。200年前の家もあります。若い人(といっても50代とか)が居なくなって久しく、人々はこの先どうなるやらとは云っていましたが、話しかければとても気さくでよいところでした。集落の道は、自動車では入れないような小さな道で、道祖神や庚申塚もあり、とても心和む風景でした。足で歩き回って、曲がり道を曲がる度に良い風景が現れて、景勝地ではない静かな外国の小旅行のようです。小川のせせらぎにフキノトウも。
風景を壊すような新しい建築や看板標識がないのが良かったのですが、携帯電話の電波塔が高々とおっ立っているのと、集落を見下ろすちょうど良い立ち位置からは電線が目の前を横切っているのが少々残念でしたが、まあ日本じゃ普通です。
その集落の名前がどれも意味あり、興味深いものでした。
戸市(といち)、切差(きっさつ)、赤芝(あかしば)、膝立(ひざたて)、生捕(いけどり)
戸市は峠越えの関所で戸を立てたか刀を研いだ砥石が由来、切差は、切ったり刺したり、赤芝は、流血で血に染まった由来、膝立はヒザを立てて捕虜を縛った由来、生捕は、捕虜収容所が由来みたいです。甲斐国史に書いてあるそうです。実際、武田信玄の数代前の武田統一戦争の時代にこの辺りで戦乱があったらしいです。ろくでもない由来だけど、伝統あって、住民のおじさんは誇らしげに見えました。町村合併しても地名を安易に変えちゃ行けないなと思います。
秩父も駿河も相模も信濃も、2、3日歩けば行ける距離だから、今よりよほどたくさん人は山の中を歩き回っていたのだろうな。
数代前の戦というと、信昌くらいですか。信重?生捕なんてすばらしい地名です。角川映画にできそう。
下流に小田野城があります。さらに降りて城古寺にも城跡あり。
小田野城で死んだ跡部氏との戦だったと思います。ええと信昌だったかな。
甲府で跡部さんという人とお知り合いになったのですが、彼と会う度、思い出します。きっと末裔の一人なんですね。
調べて見たら小田野城や浄古寺城は、源平合戦由来ですか。古いものですね。
ちなみに韮崎駅前に跡部歯科があります。県内を歩いていて、三枝接骨院、小山田美容室など、有力家臣の苗字を見るたびに、「おっ」と思います。
うちのお酒は近所の三枝酒店でごいす。
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