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薬師岳-観音岳〜鳳凰稜線へ連れてって!アゲイン
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鳳凰の稜線は白砂青松といわれるほどで、まるで日本庭園を散歩しているような気分になる。その稜線を歩きながら、江戸時代に書かれた当時の甲斐の国の地誌「甲斐国志」の鳳凰山の項を思いだして、「昔の人達もこの景色を見たんだなあ・・」と感慨深かった。
「映画 点の記」で描かれたように、明治時代の陸地測量部なんかよりもずっと前から修験者たちは信仰のためにそんな高山に登っていたのだ。鳳凰も例外ではない。
下記を読むと、現在の「ドンドコ沢ルート」で登るのが正規登拝道(登山道ではなく)だったようだが、もちろん今のように整備されているはずもなく、貧しい装備で、どんな労苦をしながら登ったことだろう。
また、読むと「地蔵ヶ岳」がどうも現在の地蔵ヶ岳と違うのか?という疑問も生まれる。この辺、鳳凰が「謎の多い山」と呼ばれる所以だ。
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鳳凰山
駒ヶ嶽の東南にありて、芦倉山の北僅かに西にあり、東面を御座石山と称す。西は能呂川を隔てて白峯(シラネ)に対す。
絶頂に高さ数丈の巌あり遠く望めば人物の状の如し。
州人多くは誤り認めてこれを地蔵ヶ嶽なりと云うは非(あやまり)なり。
鳳凰山権現の石龕あり、祭日は九月九日なり。神主小池氏柳沢村に住す。
この山は柳沢村より西南に当たれり。村より一里にて雄山(ヲヤマ)の社に至り、また一里にて三本木の石祠に至り、また二里にて精進瀑に至る。これより峻嶺を挙げる。
また一里にて絶頂なり。その絶頂に参らんと欲する者は必ず八九月をもって候とす。
必ずこの瀑水に沐浴し、然るのち初めて登るものとし、もっとも不浄穢火を禁ず。
また六七月の間に登る者あれば疾風暴雨と寒気早至り秋稼に大害ありと云う。
一説に絶頂の祠中に掛け鏡あり、往時盗人ありてこれを盗み去らんとせしに、祠前の巌間忽ち閉まりて行く能わず。畏れて立ち帰り鏡を捨てれば路また開いて始めのごとくなりしと云う。
これより東南の方に対峙するを地蔵ヶ嶽と云う。相い隔てる壱里弱、山背少しく低し。
その次を観音ヶ嶽と云い、その次を薬師ヶ嶽と云う。
地蔵ヶ嶽よりこれに至る、おおよそ壱里にて近し。皆東南に連なりたる一脈の山なり。
その仏名をもって山の支名とするは、各所に小石仏を置けるが故なり。土人、地蔵、観音、薬師のある所を三嶽と云う。また薬師ヶ嶽をあるいは乗鞍ヶ嶽とも呼ぶ。
乗鞍ヶ嶽を南へ下れば砂払という所あり。これより芦倉村へ五里ばかり南やや東に当たる。
御室、焼山、堀切、杖立、苅合、清水等阪路とくに険悪なり。
おおよそ、この山の絶頂二里ばかりの間、砂白くして海浜の景色あり。奇石、怪岩、奇樹、奇草、一々名状しがたし。
また、この山の面に春三月頃より消え残りたる雪、自然に牛の形を作る所あり、土人望みて農候としこれを農牛と称す。
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旧漢字、旧仮名遣いは自己流で直していますので多少誤りがあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
パソコムさん
昔の人は苦労して信仰のために悲壮な覚悟で登ったと以前は思っていましたが、今の人があまりに信仰と縁遠いため、信仰登山を特別な偉業のように思ってしまいます。確かに開山のときのパイオニヤは悲壮な覚悟だったと思いますが、その後の江戸時代の信仰登山と混ざってしまっていまいた。昔は昔でもいろんな昔がありますね。
昔の信仰は今のように特別な行いではなく、飯を食ったり、歯を磨いたりするくらいの頻度でお祈りをしていたことを考えると、一般に信仰登山といっても、今の娯楽登山と同じくらいの喜びと楽しみを得ていたのではないでしょうか。甲斐国史に書かれるくらいだからかなりの人が「お祈りハイク」していて、登山をすべて信仰登山と呼んでいただけではないのかな、と思います。旅行はすべてお伊勢参りやお寺周りと呼んでいたのですから。
あの白い装束も、山ウエアとして、皆が着ているから着ていたのではないかな。今と同じです。
逆に、今の人はあまりにも「時々牙を剥く恐ろしい自然」に手を合わせなさすぎと思います。1000年に一度の地震、100年に一度の台風みたいなことは、山の上では毎年起こっていますが、人がいないから災害にならないだけです。
今は便利な道具や整備された道があるようでも、それは只の借り物で、山は大して変わっていないですから、かえって危ないとも言えますね。
甲斐国史現代語訳ありがとうございます。
6、7月は危ないから登山禁止と言わず、たたりがあるからやめておけと言うところが良いですね。
さっそくのご訪問とコメント感謝します。
私もyoneyama様と同じように江戸時代であれば、山登りは実は「レジャー」だったんじゃないかと思っています。
その時代には「お伊勢参り」も「善光寺参り」も信仰ではなく、それに名を借りたレジャー旅行だった。
ひょっとすると富士登山も同じだったかも知れませんね。
ですから、さほど悲愴な覚悟で登山(登拝)したわけではなかろうとは思います。
でも、登山道の状況の悪さ、装備の貧弱さ(足回り一つとっても)は事実ですね。
ただ、それを補うためには「たたり」に名を借りてやんわりと登山するな、と。
昔の人の知恵は、自然と対峙することが少なくなった現代人から見ると却って優れています。
だから、おごらず謙虚に山に向き合いたい。
そう思っています。
私の故郷の山、鳥海山の農候の雪形は「種まき爺」です。これが現れると種まきです。
[農牛」
観音岳の農牛は、黒い姿をしている。融雪型といわれ、解けた部分が牛になる。頭を低く下げて今にも北に向かって駆け下りそうな躍動感がある。観音岳東面直下のハイマツ帯に積もった雪が周囲より先に解けて黒く見える。山ろくの韮崎市などでは5月上、中旬に農牛が現れると、農作業が本格化する目安にしていた。地元では「のうし」と呼んでいる。
江戸時代の山梨の地誌「甲斐国志」は、「白い農牛」が現れると記述している。しかし例年は黒い牛なので、甲斐国志の記述は間違いとされてきたが、昭和50年代のある年の秋、白い牛が現れた。ハイマツにつもった雪が先に解けたもので、めったには出ないが甲斐国志は間違いではないことが証明された。
だそうで、白い牛、見てみたいですね。
コメントありがとうございます!
私、こういう話は大好きで(^^)
地蔵ヶ岳の下りを読んでも、どうにも理解できず、「甲斐国志」の著者自身が山に登ったわけじゃないだろうから、どこか間違いなじゃないかと思っていました。
やはり、この中の記述がすべて正しいわけじゃなく、間違いもあるだろうという考えもあるのですね。
だけど「農牛」に関しては、甲斐国志のとおり雪形での牛も現れたと。
う〜む。奥深い。
山梨に限らず、山腹に現れる雪形を様々な形に見立てることはあるようです。富士山にも白峰三山の農鳥岳にも「農鳥」が現れるそうで。
星座もそうですが、現在人には到底見えないような形が昔の人には見えたらしい。想像力豊かだったのでしょうね。
この次の春には鳳凰の山腹も怠りなく注意して農牛(白黒問わず)が現れたら日記で速報したいと思います。
ぜひご期待下さい。
翻訳ご苦労様でした。
興味深く拝見いたしました。現代語訳でも難解です。
ひょっとして昔ホントの地蔵は「赤抜沢の頭」?
オベリスクへ行くと帰れなくなる?
やっぱりあそこは怖そうだもの。。。
農牛も知らなかったので春に山を見る楽しみが増えました。
ヒュッテpasocomますます充実ですね。
コメントありがとうございました。
これ、「現代語訳」というのではなく、単に漢字と仮名遣いを今風に直しただけで、なるべく原文のままになっていますので、読みづらいですね。
でも、それがまた味があって、江戸時代の著者の気持ちが伝わって来るような気がします。
この文章の中、「絶頂に高さ数丈の巌あり遠く望めば人物の状の如し。」は明らかにオベリスクのことだと思います。他に考えられない。
すると、「これを地蔵ヶ嶽なりと云うは非(あやまり)なり。・・・これより東南の方に対峙するを地蔵ヶ嶽と云う。相い隔てる壱里弱、山背少しく低し。」がわかりません。
現在の地蔵ヶ岳(オベリスク)の「東南」にはさしたるピークはなく、ですので結局nori3様が推測されたように「赤抜沢の頭」くらいしか見当たりません。
すると「東南=誤り」で「西南=正」でしょうか。
「山背少しく低し。」はバッチリなのですが「相い隔てる壱里弱」は離れすぎ。
ただし、この項での稜線の長さの記述を見ると現在の「一里=4km」という常識は通じず、どうも「一里=1kmほど」の距離感です。
これは昔は測量もせず、ただ歩いた実感でしょうから、山中なら、無理もないことかと思います。
そうすると距離の記述もほぼ当たりで、「赤抜沢の頭=昔の地蔵ヶ岳」でOKみたいな気がします。
ただ、隣にあれだけ目立つオベリスクがありながら、非常に地味な赤抜沢が「地蔵ヶ岳」と呼ばれたということがなんとなく頷けないところではありますね。
(でも昔からオベリスクを眺めて、「あれが地蔵ヶ岳だ」と言っていた人が多くいたらしいけど。)
あと、もう一つ。
原文によると鳳凰に登る道は「(柳沢)村より・・精進瀑に至る。」と書かれています。
柳沢という集落はいまの武川町真原(さねはら)あたりらしい。ですから「ドンドコ沢ルート」ではなく、「石空川」に沿った道のようです。
ドンドコ沢なら「南精進ヶ滝」ですが石空川なら、ぴったり「精進ヶ滝」です。
私は精進ヶ滝までは見に行ったことがあるのですが、その先は知らず。そこから古のルートがあるのか、これまた謎の話ですね。
全く興味が尽きないことです。
オベリスクの東南でしたね。西南と勘違いしていました
「赤抜沢の頭」と「観音」の間に小ピークがありますね。
鳳凰小屋に降りる分岐の所。
ここだと東南。カシミールで見ると、距離はオベリスクから直線距離で770mでした。
いずれにせよ、ここに行く楽しみが増えました。
再コメントありがとうございます。
上のレスを書いたあと「ひょっとして自分の書き間違い?」と思い、確認したのですが、やはり原文では「これより東南の方に対峙するを・・」で間違いないようです。
国会図書館「近代デジタルライブラリー 甲斐国志」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764925
(コマ番号:15/54)
ですが、上のCasumin51様のコメレスにも書いたように、甲斐国志の記述が全部正しいとは限らない。
何しろ「著者」である松平定能という方は、その名からしても単なる官僚であって、自ら県内を歩き回って書いたのでなさそうです。
そうであれば、書かれた一言一句にこだわらず、全体的に推測すれば良いんじゃないか?と。
そう考えると「東南」が間違いで「西南」が正しいとしても不思議はありません。
やはり「旧地蔵ヶ岳=赤抜沢の頭」と考えるのが自然かと思われますが、いかがでしょう。
旧地蔵ヶ岳=赤抜沢の頭ではないかと思います
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