深田氏が山梨の茅ヶ岳で最期を迎えたのは有名な話だが、その時の詳細はあまり知られていないのかも知れない。
1971年。4月にヒマラヤ登山を控えていた深田氏は3/20日に韮崎市の穴山温泉能見荘に宿泊して、翌21日に親しい友人らとともに茅ヶ岳を目指した。
そしてその日の正午前、茅ヶ岳の山頂を間近に望む稜線に彼は突然倒れこんだ。
「足を踏み出したままの姿勢で、巨木のように倒れ、深田君は一瞬にして意識を失ってしまったのだ。つまずいたのか、滑ったのかと駆寄った山村君は深田君が大きなイビキをかいたので、これは脳出血に違いないという。
全く思いもかけぬことが、なんの前兆も予感もなく、突如として起こったのだ。僕達はただ茫然として、立ちつくすばかりであった。
急を報じ救援を求めに山村君が山を下り、医師、警察署員を含む十五六名の救護隊の来着まで、約四時間半、僕達は眠った深田君の傍で、刻々色調の変ってゆく富士を眺めながら、黙然として、暗然として、悄然として佇んでいた。」
(同行者のひとり、藤島敏男氏記。)
救護隊を待つ間、仲間が「この辺りはイワカガミが咲いて、きれいです。」との言葉にすっかり喜び「そうですか」とうなずいたのが最後だったそうだ。
この時、同行していた山村正光氏は当時の国鉄で車掌をされていたそうで、著書に「車窓の山旅・中央線から見える山」などがある。
その本にもこう記されている。
「昭和四十六年三月二十一日、お彼岸の中日、おだやかな日であった。女岩の鞍部から稜線をたどること五分。あと少しで頂上という所で、なんの前ぶれもなく、十一時二十三分、先生は突然倒れた。そして大きないびきをかき出した。これは脳出血、手に負えないと判断、同行者藤島敏男氏など五人に後事を託し、救護依頼のため麓の柳平に向けてかけ下った。
金峰も富士も夕映えのつきるころ、救助の方々と再び稜線に立った。すでに先生は事切れていた。その間のことを藤島氏は『心臓の鼓動が止まって、三月二十一日、午後一時、深田君は還らぬ人となった。(中略)。僕達は眠った深田君の傍で、刻々色調の変ってゆく富士を眺めながら、黙然として、暗然として、悄然として佇んでいた。』と記録している。」
その後この山村氏がその稜線に「深田久弥先生終焉の地」という墓碑を建てたのだそうだ。
山村氏は甲府の人。氏の二人の娘さんは「聖さん」「光さん」というらしい。これを知れば彼がどれほど山を愛していたかが思い知れるだろう。
深田氏の没後10年を経た1981年、韮崎市観光協会では山梨県、韮崎市、地元山岳会白鳳会の協力を得て、この地に茅ヶ岳深田記念公園を開設。
深田氏の自筆による『百の頂に百の喜びあり』の記念碑を建て、以来「深田祭」として毎年4月第三日曜日に氏を偲んで記念登山と碑前祭が行なわれている。
『百の頂に百の喜びあり』は、登山をする人なら誰でも納得できる名言だろう。
高い山でなくとも、有名な山でなくとも、どんな山でも登れば喜びがある。
ともすると著名な山にばかり登りたくなる心にいつもこの言葉を響かせていたいのものだ。
茅ヶ岳(標高1704m)の名は「茅」が全山麓を覆っていることに由来するのだそうな。
山頂では奥秩父、八ヶ岳、鳳凰三山をはじめとする南アルプス、霊峰富士へと連なる大パノラマ展望が楽しめる。
1997年2月、「山梨百名山」に選定された。
穴山温泉能見荘
http://bit.ly/1h2ATTL
写真左)深田公園に立つ「百の頂きに・・」の碑
写真右)茅ヶ岳稜線にある深田氏終焉の地石碑
おはようございます
百名山の深田久弥氏の名前は知っていてもそれ以上の知識はなかったです。
今なら携帯で、ヘリという手段も使えたのでしょうね
登山の先覚者の方々には深く敬意を表します。
山を歩けるので健康!なんて判断はしないほうがいいですね。
実際、わたしも嫁の執拗な誘いで検診に行って「大腸ガン」を発見できました。
「あと一年放っておけば全身に転移していたよ。あなたはラッキーですね」などと言われました。
山が好きで、一生、山と付き合いたいのであるならばこその健康診断受診をお薦めします。
元気な細胞ほどガンの進行は早いそうですよ(笑
先覚者、深田久弥氏に黙祷・・
でわでわ
おはようございます。
山梨では年中、山での遭難?の記事が新聞に載っていますが、時々、遭難というんじゃなく山で心臓麻痺などの急病で亡くなる方があるようです。
この深田氏もそうですが、それが里にいても起きたのであってたまたま山行最中に起きてしまったのか、それとも山歩きの負荷から起きたことなのか、それがわかりません。
いまどきなら定期的に健康診断して少しでも不安があるようなことであれば、直してから山に行けばいいのでしょうが40年以上前にはそんなこともしなかったのでしょうね。
「山で死ねば本望。」などという人もいるようですが、帰りを待つ家族や友人のことを思えば無事に帰還してこそです。
uedaさんも健康万全、お気をつけてお帰り下さい。
ではでは。
そうですか、明日なんですね。
私は深田氏の文章が大好きです。いかにも山が好きな雰囲気が文章にあふれていますね。
私は父が買った日本百名山の初版本を持っておりますが、小さな子供のころから山に登る前から興味本位で読んでいた記憶があります。その後山を始めて思い出したように読みたいと思ったときに何度も行方不明になっていたのでその度に文庫本を買っていました。ですので、文庫本の百名山も何冊か持っています。
深田氏に対して驚愕するのは、この人はどれだけ山に登ったんだろうということですね。百名山はいわば氷山の一角ですね。私なんぞは穂高や八ヶ岳など同じ山ばっかり登っていて本当の山好きではないと思いますが、そういう意味でも尊敬しております。
ヤマレコでもいかにも山そのものが好きな人たとえばyokowvさん(くしゃみ?)などの記録を読ませてもらうと深田氏のような山好きな人の気持ちが今に蘇るような気持ちがします。
私なんぞが偉そうに批評はできませんが深田氏は本当の意味でのピークハンターなんでしょうね。あるいは本当の意味のワンダーホーゲラーかも知れません。
こういう病気で山で倒れることも中高年になると心配しなければいけないので、そういう意味では単独はやっぱりきついかもですね。それと山岳保険はやっぱり必要ですね。ヘリを呼ぶために常にそれを頭に入れておく必要がありますね。私はジョギングとラッキョウやニンニクなどで血液サラサラ効果をあげているつもりですが…。
いつもありがとうございます。
私は山梨人でありながら、山に登るようになるまで深田さんはその名前以外まったく存じ上げなかったです。評論家なのか、登山家なのかはたまた随筆家なのかと。ほぼその全てだったのですね。
家にはずっと「車窓の山旅・中央線から見える山」がありましたが、手にとって読んだのもこの数年前のことです。
まず「ヒマラヤに行く直前に茅ヶ岳」というシチュエーションに驚きましたね。普通考えると落差が大きい。
なぜそのタイミングで茅ヶ岳を選んだのか?知りたいと思って少々追究したのですがあまり詳しいことはわかりませんでした。おそらくmurrenさんがおっしゃるように「この人はどれだけ山に登ったんだろうというほど。」だからこそだったのでしょう。
そんな方なればこそ「百の頂きに百の喜び」という言葉も一層深く響きます。
深田久弥さんのことは去年まで知らなかった私でございます。pasocomさんの日記やレコ読み逃げしていますがとてもためになっています。
語り合うだけの知識がないので読み逃げしてるだけなんですけどね
今後もよろしくお願いいたします!
コメントありがとうございます。
私の日記など、さほどためになるなどというほどのものではありません。
その日その日に思いついたようなことを書いているまでです。
ただ、読んだ方が「ほうほう・・・なるほど」という風に、いわば「トリビア」みたいに読んでいただければと思っています。それで「雑学(役には立たない知識)」というカテなわけで(^^)
今日の日記は読んで頂いたとおり、山梨に縁がある話で、地元の山好きな方々はすでにご存じな話かも知れません。
茅ヶ岳はそれでなくとも山頂での展望最高な山ですので、CCRさんも機会があればぜひご訪問下さい。
深田氏の碑などもそのついでにでも見て頂けばと思います。
パソコムさん
御蔭で深田氏最後の様子を知ることが出来ました。脳出血で、山中で救護の手が及ばず、ゆるゆると美しい富士を見ながら亡くなるとは、考えられる限りかなり最高の死に方ですね。うらやましいです。
ところで、茅ヶ岳の山群は、山頂も山群も含めて茅ヶ岳と呼ばれます。最高点は金ヶ岳なのに何故?と昔から謎なのですが、もしかして深田久弥氏が茅ヶ岳で亡くなったから茅ヶ岳の名前が有名になったせいでしょうか?1971年以前は、土地の人は、茅ヶ岳、金ヶ岳を合わせたあの目立つ山群を茅ヶ岳と呼んでいたのでしょうか??
yoneyamaさん、ご訪問ありがとうございます。
茅ヶ岳についての疑問ですが、いつもの「甲斐国志」から引用しますと、
「 1、金嶽 茅嶽
一山にして別峯なり。芦沢の西にありて北方赤巌に接す。すこぶる高山なり。
その西北は逸見筋江草に属す。浅尾、上手、小笠原、三蔵等その西南に連なる。
南方は山足長く伸びて竜王に至る。
穂坂の庄諸村、その丘上にあり、古の牧場なり。古蹟部に詳かにす。
その東南は亀沢、入打返、漆戸、菅口、神戸、安寺等なり。
土人いう、昔逸見筋浅尾村の樵夫孫左衛門、山中に入りて仙人となれり。その経年幾ばかりを知らず間、この山及び曲嶽に遊び、あるいは大石を深谷に転し、あるいは鹿を追いて走り、あるいは巌上に跋するを見る。蓬髪大眼にして身長丈余。草木を綴りて衣とす。人と言語を通せずという。」
など仙人?伝説みたいな話があります。
表題にあるように「金ヶ岳」が最初で茅ヶ岳は従属しているようですね。やはり金ヶ岳の方が若干なりとも高いからでしょう。
しかし私自身も「茅ヶ岳」は知っていても「金ヶ岳」は知らなかったくらい無名でした。というか、あの二つのピークをまとめて「茅ヶ岳」でしたね。
これは深田氏がなくなるずっと以前からということになります。
おそらく甲府方面から見ると茅ヶ岳の方が大きく手前に見えますから自然と「あの山は茅ヶ岳だ」という風になっていった。また山頂の展望がずっと金ヶ岳よりいいので登山者に人気があったというんではないでしょうか。あくまでも私の推測ですが・・・。
pasocomさん、こんばんは。
深田氏の亡くなった時の詳細を知ったのは
山と渓谷の特集記事でした。
1980年代前半だったでしょうか。
とっくの昔にヤマケイ処分してしまったので
記憶に定かではないですが。
pasocomさんが書かれた内容と同じで
1〜2ページの特集だったような。
絶景の茅ヶ岳しばらく行ってないので、
また行ってみたい山です。
私が初めて行った頃は、女岩の水場は、
半洞窟状ですごく神秘的な雰囲気だったですよ。
30年ぐらい前でしょうか。
崩れて埋まってしまって今の状態になったようです。
2回目に訪れたときは既に埋まってました。
コメントありがとうございました。
ここに引用した藤島氏の文章というのは朝日新聞社刊の「山の文庫6 山頂の憩い」という中にあるようです。
かなり以前に発表されたものなのでしょうか。山村氏の記述ももう30年も前の本からですし。
今となっては「古い話」になってしまい、却って知らない人の方が多くなってしまったのでしょうね。
わたしももちろん深田公園からのルートで茅ヶ岳に登ったことがあり、その時は女岩のそばまで行って水を汲むことができましたが、いまは立入禁止になってしまったようです。
茅ヶ岳には四方八方から登山ルートがありますが、深田公園のせいでこのルートがメインルートになっていますね。
他のルートも面白い。再訪されるなら別ルートも強くお勧めします。
こんばんわ。深田久弥氏の命日に、茅ヶ岳に登ってみたことがあります。年にもよるでしょうが、まだまだ残雪が深く、山頂は標識がすっぽり埋まるくらい雪がありました。登山者も数人しかおらず、静かな山行でした。
お亡くなりになった場所は山頂までひと息、金峰、みずがき方面から甲武信岳にかけての山並みがよく見晴らせる場所でした。山で死にたくはないですが、どこかで死ぬのなら、山を愛した人には最高の場所なのかも、と思いました。
今年は雪も深いでしょうが、4月の深田祭の頃には、きっとミツバツツジなどの花もきれいなんでしょうね・・・
はじめまして。ご訪問、コメントありがとうございます。
今年の茅ヶ岳はまた一層雪が深いようです。例の大雪があったあとのレコで山頂標がすっかり埋まっているのを見て笑ってしまいました。
さすがにもう減って来たとは思いますが、この時期でも例年よりずっと大変な登山になるでしょう。
女岩までは谷沿いの暗いような道を歩き、そこから尾根に駆け上がると一気に展望が開けますね。
あの尾根までの急登が深田氏の心臓に負担をかけたのかもしれません。
ご存じのようですが、春になると茅ヶ岳から金ヶ岳の稜線ではミツバツツジが咲き誇りそれは美しい。
私もその頃には一度は登っておきたいと思う景色になります。
yamaonseさんも機会があれば再訪下さい。
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