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この本を手にした経緯などの日記はこちら。
http://www.yamareco.com/modules/diary/21844-detail-88632
権現岳に登るルートとして「甲斐大泉駅から権現岳」が紹介されている。これはいまの「天女山ルート」だ。
三ツ頭までの中にはさほど目につくような面白い記述がないので、三ツ頭分岐から権現岳までの間を書きだしてみる。
「左方アトノ尾根を登ってくる小泉口と合して樹林帯を登り切ってハイマツに覆われた平らなところが三頭山である。
海抜2,620米を算する三頭山まで登ると正面に権現嶽山頂の鋭い岩峰が間近い。左方編笠山のなだらかな線を越えて北アルプス・中央アルプスも望まれる。
三頭山からハイマツの中の道はかなり下りになり、降りきった鞍部には柱とトタン屋根のみが残った三頭避難小屋がコメツガやダケカンバの林の中にある。これから先は灌木と針葉樹との切開きを登り、登り切ったところが西朝日嶽といわれ、ここまで来ると権現嶽山頂が非常に近く見えるが、これから先のハイマツの切通しを登るのはかなり骨が折れ、頂上まで仲々はかどらぬ。
視界は急に開けて右に赤嶽、左に編笠山・西嶽、左右とも深い谷の樹海、加えるに七月頃までは諸処にある残雪、壮快な眺望である。
西朝日嶽の突起をやや下り、最後の登りにかかる。右側は急切立ち左側はややゆるやかな痩せ尾根のハイマツ切通しを進む。やがてハイマツ帯を抜けると岩稜となり、大きな一枚岩の下を左に巻いて岩稜を攀(よ)じると山頂である。
権現嶽の山頂は高さ10米余りの集塊岩の自然の尖塔の屹立よりなり、東側の地獄谷に向かってえぐり取ったように聳えている。この尖塔に囲まれて一小祠がある。荒澤不動尊を祀ってある。2,786米の三角点のあるところには昭和15年8月大村益次郎の銅像が建てられた。」
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三ツ頭の先、現在「奥三ツ頭」とも呼ばれるピークが「西朝日嶽」と呼ばれている。地図を見るとこれに対して「東朝日嶽」というのもあって、こちらは現在の「旭岳」だ。権現岳をはさむようにして「東・西朝日岳」が置かれていたらしい。
yoneyamaさんによれば「朝日」は「旭日旗」に繋がるそうで、「旭日旗」は戦前の日本陸軍の軍旗であったわけだから、「大村益次郎の像」と合わせて考えると軍国主義的影響があった戦前の一時期だけの呼び名に過ぎないのかもしれない。
そしてその手前の鞍部に「避難小屋」などがあったとは!
権現岳山頂の檜峰神社のことを「荒澤不動尊」と書いているのは単なるミスか・・・。不動尊とは「不動明王」のことだろうが、これは仏教の仏。戦前であれば神道の神である「イワナガヒメ」の方がふさわしいだろうに。
山頂周辺の記述については他にも「2,786米の三角点のあるところ」は標高も相当おかしいし、山頂周辺に三角点などない。
現在の権現岳の標高は2,715m。測量の誤差を考えても70m差はありえないだろう。しかし地図の方にも同じく2,786と表記されているのだからこれは誤植ではない。三ツ頭の標高2620mも現在の2580mからすると大きな誤差がある。なぜだろう?
日本陸軍の創設者と言われる「大村益次郎の銅像」はおそらく戦後に撤去されてしまったのだろう。これも聞いたことのない話。
写真左)権現岳周辺の尾根地図
写真右)赤岳から望む、左から三ツ頭、奥三ツ頭(西朝日岳?)、権現岳、東ギボシ。
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『トレースなし!で青息吐息の三ツ頭』(2015.01.20)
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-577910.html
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おはようございます
これまた興味尽きない話ですね。
真言密教から派生した山岳仏教を考慮すると、不動尊もありですね。
大峰奥駆道の山々には釈迦の像や不動尊などの仏像が登山道やピークに安置されてます
それよりも「大村益次郎」には驚きました
村田蔵六(益次郎)は「花神」で、司馬遼太郎が克明に記録したとおりの維新十傑の偉人。
こいつは面白くなりましたね・・
権現と蔵六・・とんでもないつながりですね
興味尽きないpasocom民俗学に拍手です
でわでわ
日本神道は古来の日本独自のもの、聖徳太子による仏教伝来(異論ありますが)により仏道と神道は、以来、複雑に近づいたり遠ざかったりの推移を繰り返しますね。
本来、日本人の感覚は、周囲を気にしますね。信仰を貫くという主体性にかけているので多重神仏崇拝という感覚になったとされます。
「大変だ!」という言葉も「他意変だ」と翻訳されて、周囲の感覚と自分の感覚のずれをまず気にすると言われてますね
この独特のバランス感覚が、中国経由シルクロード文化を独自の形にしたり、西洋文化を取りいれるカタカナ語を発達させたりしたと言われてますね
神仏同居はそういう意味では日本独自のありえる姿でしょうね・・
追伸
権現岳までのコルの広場・・そういえば・・あれが非難小屋跡でしょうね
三つ頭から下って樹林帯に入り岩場を曲がった先にあります。
わたしのビバーク場所・・不思議にそこだけ小さな広場でした
今回の日記ではuedaさんが「幕営候補地」とされていた空き地がおそらく小屋跡だろうと直感したので、uedaさんのご意見をお聞きしたかったです。やはりその可能性が高いでしょうか。
私は迂闊なことにその場所を知りません。「樹林帯に入り岩場を曲がった」ところといえば「あそこ」とは分かるのですが。
雪のない時期であれば地面を調べればなにか残骸が出るかもしれませんが、今の時期では無理ですね。夏の宿題としましょう。
「不動尊」の方はかなり怪しい話だと思っています。江戸時代の甲斐国志や甲斐叢記には明確に「八嶽権現=石長姫と八雷神を祀る」とあるのですから、昭和期に急に別の仏様に変更されたとは思えないのですが。
「不動」というとギボシ山頂には「不動明王」の石碑が三本も建っているのでこれとの混同かとも思いましたが、ギボシの方には「成田山」とあり「荒澤不動」ではないです。
また、権現山頂の鉄剣脇にある石板には「金毘羅大権現」とあります。WIKIPEDIAによると、これが「不動明王」に関係するとかしないとかの記述があるので、こちらとの混同かとも考えられますが・・・。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%AF%98%E7%BE%85%E6%A8%A9%E7%8F%BE
標高の件といい、存在しない三角点といい、御題目尾根の様子も現場と異なっている箇所もあるようで、この辺の記述はかなり不正確という印象を持ちます。鵜呑みにせずよほど慎重に判断しなければならなそうですね。
pasocomさん、再びおはようございます
下記山行の竜頭峰にあるという銅像の靴のオブジェ・・31番写真
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-144978.html
これ・・例の大村益次郎の銅像と関係ないのでしょうかね
邪推ですが・・
でわでわ
再度のコメントありがとうございます。
この遺構は私も日記「竜頭峰神像は近藤勇が奉納したもの??」で取り上げたものですね。
http://www.yamareco.com/modules/diary/21844-detail-85442
この靴の台座には「元治元年5月」(=1864年)と刻まれており、江戸時代末期に奉納されたことは明らかです。ですので昭和15年に設置されたという「大村益次郎」よりずっと以前のものですし、設置されているのが竜頭峰(赤岳)ですから、これも大村像とは異なりますね。
この靴の上の部分については同じものが赤岳山頂(南峰=現在祠があるところ)にも建っていたそうで、「衣冠束帯の青銅像」だそうです。「衣冠束帯」というと平安時代の貴族風でしょうか。そうするとこの靴は木靴を表しているのでしょうね。
大村像については「三角点のところ」という記述ですが、実際には権現周辺に三角点はないので、それがどこを指すのかも不明ですね。撤去されたにしろやはり台座とか基礎部分とか何らかの名残があっても良さそうに思うのですが。
失礼しました
実は、大村益次郎は軍隊の装備で軍足を輸入したのですが、それが日本人の足には大きすぎて、どこやらに日本最初の靴の製造工場を作ったという逸話が頭の隅にあったもので・・
靴=蔵六という単純な話です。
それと昭和15年という年号が非常にひっかかります
というのは大阪の富国生命ビル前にある「大村益次郎の碑」の建立が昭和15年のこと。
これに符合するような昭和15年の銅像建立なら一連の記念行事の様相ですね
中々面白い話だとはおもわないでしょうか?
でわでわ
再三のコメントありがとうございます。
そもそもなぜ八ヶ岳に大村像なのか?まずこれが不思議であれこれ調べて見ましたが、少しも手がかりがないですね。
ただ「三角点」についてはちょっとひらめきました。
いまの権現岳山頂から100mほど北に進むと編笠山方面からキレットに向かう縦走路にぶつかります。あそこはあたかも「三叉路(三角の点)」な感じのところだし、ちょっと平らな場所もある。周囲どこからも眺めることができて像を建てるには絶好な場所ですね。現在あそこに立つ道標には「標高2704m」とあり、山岳案内の2786mとはだいぶ違うのですが。
http://yamareco.info/modules/yamareco/upimg/47/472177/66ca95dd411b8d95efbcf354ee76d42f.jpg
日本山岳案内の最初に口絵が数枚あり、上とほぼ同じショットがありました。そのキャプションは「権現岳から剣が峰を望む」とあったような。(本を返却してしまったので確認できないです)
だとすれば戦前は、このジャンクションが「権現岳山頂」であって、岩峰は別物と扱われていたのかもしれません。であれば、「山頂」に像を建てたのも不思議ではないですね。
[追記]
私も昭和15年に着目しましたが、大村の生誕や没何周年でもなく、ただ太平洋戦争開戦の前年だとしか。戦意高揚とかの意図でしょうか。
富国生命は創立時は「富国徴兵保険相互会社」だとのこと。ここにも軍との関係があるようですが・・・。
ところで富国生命の創業者「根津嘉一郎」は山梨の人。その他南海電鉄、東武鉄道なども創った「鉄道王」と呼ばれた人です。大村と山梨の関係が見つかった???
その鉄道王までは行き着きました
で、もっと面白いことに行き着きましたよ
勝海舟が江戸城無血開城をするのに、近藤勇などの軍を江戸から遠ざけるのに軍資金をわたして甲州にて尊王軍(大村益次郎)との戦いに派兵したそうです。
それを「勝沼の戦い」というらしいです。
さてさて・・なんとなく面子がそろってきましたね
謎解きが面白くなってきました
でわでわ
大阪の石碑について、ちょっとネット検索してみたところ、下記がヒットしました。
これは富国生命前ではないようです。大阪医療センターの前。そこで大村は死去したのだとか。
この巨大石碑も昭和15年に建てられたとあります・・・。
http://bakumatsusanpo.com/omura-masujiro-osaka2.html
それともこれが移築されているのでしょうか?
このサイトの著者も書いていますが
「大村益次郎は、兵部大輔に就任して日本の軍制構築を担当しました。この改革が後に徴兵制となり、それが元となり太平洋戦争に繋がっていきます。大村益次郎は昭和10年代に、太平洋戦争の「軍隊のシンボル」として祭り上げられてしまったんでしょう。
確かに各地に立てられている同様の碑は昭和10年代に集中して建てられています。」
というところでしょうかね。
石碑はおりをみて写真撮影し日記にアップしますね(^^v
なんか意外な方向に展開してまいりますね
軍を創設した重鎮ですから戦争前の世論高揚のために利用されたように思いますね
八ヶ岳への銅像建立もその一環で、鉄、胴の供出で山から降ろされたのかもしれないですね・・お寺の鐘なども溶かされたようです
八ヶ岳を知るにはやはり大きな世の中の流れまで考慮しなきゃ正確には把握できないのでしょうね
でも、面白いことです
でわでわ
何度もコメントありがとうございます。
下界から隔絶されているかのような山の上までも戦争の影が覆っていたようですね。
思うに、大村像が設置されたのと「東・西朝日岳」という命名がされたのは同時期じゃないでしょうか。
山岳案内にも「登り切ったところが西朝日嶽といわれ・・・」などと変な書き方。普通なら「登り切ったところが西朝日嶽で、」と確定的に書くはずでしょう。ピークの名前が急に変わったことを表していると感じます。
あのピークはもともとは「前三ツ頭」に対して「奥三ツ頭」と呼ばれていたと言います。合わせて三つのピークだったのかと。
そういうのを無視してしまったのが戦争直前の情勢だったんじゃないかと思います。
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