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甲斐国志「山川の部」では、
「権現ヶ岳、小岳、赤岳、麻姑岳、風の三郎ヶ岳、編笠山、三ツ頭、その他種々の呼称ありと云う。」
甲斐叢記では、
「八嶽(やつがたけ)
檜峰(ひみね=権現岳とも云う)、小岳、三頭(みつがしら)岳、赤岳、箕蒙(みかぶり)岳、毛無岳、風三郎(かぜのさぶろう)岳、編笠山など八稜に分るるゆえにこの名あり。」
とある。
ネットで調べて見ると、世の中では「風の三郎ヶ岳=(現在の)権現岳」という説が最も多いようだ。
だがそうだろうか。
まず、どの史料でも疑わない前提としては「権現ヶ岳(檜峰)=(現在の)権現岳」ということだろう。
その上で上の文章を素直に読めば、風の三郎ヶ岳は権現岳とは別の山だと考えるのが普通じゃないか。
甲斐国(山梨)側から見える八ヶ岳をもう一度確認すると、左(西)から編笠、ギボシ、権現、阿弥陀、中、赤、横の各峰だ。
西岳は編笠に隠れて見えないし、横岳から北の峰も見えない。
これと甲斐国志を見比べると「麻姑岳=阿弥陀岳」は間違いなく、「小岳」はその印象から中岳と考えられる。
甲斐叢記の方にある「毛無岳」は残った横岳だろうか。また、見えないはずの「箕蒙岳=硫黄岳」の名が挙がっているのは佐久地方との交流の結果じゃないか。
そして今回、甲斐国志の第65巻「神社の部」での記述を見つけた。そこの「八ヶ嶽権現」の項にいわく、
「この山、八峯競い聳ゆ。東峯を麻姑岩、西峯を風ノ三郎ヶ岳、編笠山等の別名あり。」という説明が付いている。
また「風の三郎ヶ岳」が登場した。
この「神社の部」の方の記述は同じ甲斐国志でありながら、「山川の部」と違って書き方があっさりしている。地形を説明する章ではないからちょっと省略したのだろう。しかし、そのあっさりのおかげで重要な手がかりがある。
この項は「八ヶ嶽権現」という神社(檜峰神社)を説明しているのだから、その続きの「(この山)の東峯・西峯」とは当然権現岳から見た位置だろう。「東峯」とは権現岳の東の峰であって、これが麻姑岩=阿弥陀岳なのもうなづける。
そして「西峯を風ノ三郎ヶ岳、編笠山」としているなら、「風ノ三郎ヶ岳」は権現岳の西にあるはずで、今のギボシの位置にぴったり納まる。
そもそも「風の三郎」という信仰(伝説)は八ヶ岳に限らず全国あちらこちらにあるらしい。伊那地方には「風の三郎神社」もあるそうな。これは冬に吹き荒れる寒風を「やんちゃないたずら坊主の三男坊」と例えたものらしい。信州側での八ヶ岳の呼び名にはない「風の三郎ヶ岳」が甲州側だけにあるのは、やはり甲州独特の「八ヶ岳おろし」と呼ばれる寒風があったればこそだろう。
そして、確かに長男とかはあまり「やんちゃ」というイメージじゃないね。
このイメージを大切にして考えれば、八ツの主峰であり神様がおわす権現岳を「三郎」と呼ぶのは神様に対して失礼な感じだ。
また「風切りの里」と呼ばれる北杜市高根町の集落には、風雨除けの「風の三郎社」、雨乞いする「八ヶ岳権現社」、晴天祈願する「日吉神社」を合わせて三社参りという風習があったそうで(高根町誌)、これからしても「風の三郎」と「権現」は別峰でないとおかしい感じがする。
「風ノ三郎ヶ岳」とは逆に「ギボシ(擬宝珠などの表記)」の名は信州側の史料には多く出てくるが甲州の史料には見当たらない。では甲州側でギボシは無視されていたのかというとそうではあるまい。
甲州側から見上げる八ヶ岳は中心に権現とギボシが並び立っていて、ギボシは高さも権現と同じか少し高く見えるほどだ。
威風堂々な山に「風の三郎ヶ岳」と命名したと考えるのが自然じゃないだろうか。
写真左)北杜市から見上げるギボシと権現
写真右)甲府盆地(茅ヶ岳)から望む八ヶ岳全貌
風の三郎ヶ岳と風の又三郎の関係については下記日記にて。
「八ヶ岳、風の又三郎、そしてトトロの関係・・・」
http://www.yamareco.com/modules/diary/21844-detail-69988
おはようございます
ギボシトラバースは結構しているのに、ギボシのピークは踏んでません(^^;
目の前に権現岳があり青年小屋に近づくと赤岳の威容に圧倒されてギボシに関心がいかないのかもしれないですね
ただ、冬道では青年小屋からトラバースするときに、ふと直登がよぎったりしますが・・
あのナイフリッジに思いとどまってます。
一度、夏にピーク踏んでみたいですね。
「権現ヶ岳、小岳、赤岳、麻姑岳、風の三郎ヶ岳、編笠山、三ツ頭」といい、「檜峰(ひみね=権現岳とも云う)、小岳、三頭(みつがしら)岳、赤岳、箕蒙(みかぶり)岳、毛無岳、風三郎(かぜのさぶろう)岳、編笠山」といい・・この羅列された呼称・・
権現は信仰的には主峰なんでしょうね
そのほかはまさしく「見た目」の呼称
唯一、「風の三郎」だけが浮いてますね。
たとえば人の名前には未来を願う気持ちが込められてますね。
このギボシと呼ばれる山塊に「風の三郎」と名ずけた背景を知りたいものです。
ふふふ・・風の三郎は、単独で名づけたと思うと納得できそうな羅列と思いませんか?
でわでわ
おはようございます。
山梨側の文献を見ると、八ツの山名は必ず「権現=檜峰」が最初で、次にその周りの山名が並ぶ。赤岳なんか「その他いろいろ」の中の一つに過ぎませんね。
それにしても、山名は必ずしも仏教がらみでもないですね。麻姑岳は中国の仙女、三ツ頭は形から、などなど。
中でも「風の三郎」は、なんとも土俗信仰というかのどかというか、異彩を放っています。
まさに「唯一、浮いてます」ですね。
totoroさんが富士見の博物館で見つけた古絵図などではもう曼陀羅世界のようですから、どうも、そういうのは長野側だけの思想だったのかもしれません。
山梨側はもっと素朴な山信仰だったのが、江戸時代ころは長野の山名も入って来て混ざったんじゃないかとも思えます。
pasocomさん、おはようございま〜す!
pasocomさんの説が一番説得力がありますね。風の三郎はギボシだと思います。
三男=「やんちゃないたずら坊主の三男坊」ですが、私の父も三男で、小学校のオルガンの中に蛇を入れて女の先生を困らせたりと、かなりやんちゃだったそうです。そこにやけに納得してしまいました(笑
おはようございます。コメント感謝です。
私の勝手なイメージですが「長男=いい子で従順、おとなしい」「次男=活発だけど、できた兄にコンプレックス」「三男=自由きままでやんちゃ好き」って感じがします。
三男くらいになると女の子も間にいれば4、5人目の子であって、親も目を掛けきれなくなるのでしょうか。私の叔父もまったくこの感じです。
昔はいまよりずっと子だくさんだったでしょうから、どこの家でもそんな三男坊がいたんでしょうね。
ですから「風の三郎」というのは親しみを込めながらもちょっと見下げたような命名なんじゃないかと思います。書かれている山名の順序もどの文献も後ろの方に「風の三郎岳」ですね。
だとすると八ツの主峰である「権現岳」の又の名としてはちょっとふさわしくないかと。
権現岳=長男、赤岳=次男、ギボシ=三男 て感じだったのかも・・・ (^^)
風ノ三郎ヶ岳は”ギボシ”だった!
ギボシ好きの私としては、とてもうれしいです。こんだけ尖ってかっこいい山なのに、登山客にピークをスルーされることが多いのは、悲しいです。
ただ、やはりギボシは、長男ではなく、次男でもなく、三男というのも、納まりがよい感じがします。
pasocomさん、こんばんは。
↑のtotoroさんと全く同意見!
おはようございます。
いままで、手がかりがなく諦めかけていた「風の三郎ヶ岳」がわかったことは私にもとてもうれしいことでした。
ネットの八ツに関わる信仰を書いたページには、たいてい権現岳のことと書かれていましたが、それは自身で調べたのではなくて、「権現岳のことだと言われている。」という書き方。そこには「なぜ権現なのか?」という証拠のようなものは無かったですね。
つまりずっと、そう言われてきただけのようでした。
今回「甲斐国志」の神社の記述という思いもしないところに手がかりが見つかったのですが、この記述、誰も目にしなかったのでしょうか?不思議なことです。
その辺の事情も含めてもう少ししっかりした傍証が出てくるといいのですが・・・。
コメントありがとうございます。
ギボシファン多いですね。私も、大阪のuedaさんも大ファンのようです。
もちろんギボシは「擬宝珠岳」でもいいのですが、山梨側には「擬宝珠」と呼ばれる山はなかったようです。そのかわりが「風の三郎ヶ岳」でしょうか。
この説が本当なら宮沢賢治ファンもうれしいことでしょう。ギボシの人気が急上昇!ということになるかも・・・・(^^)
遅くなりました^^;
風の三郎ヶ岳がギボシ。同感です。
小学生の頃、長坂(北杜市)の母方の実家の畑から北に大きく見えるのが左の写真の姿でした。八ヶ岳と聞いていつも峰々を数えてものでした。5つ位のピークは見えましたが当然、ギボシも数えて中の入っていました。普通に大きな山に見えるのです。
また、編笠山から見るとギボシが一番目立っていて、やはり古書に名前が無いとおかしいくらいの存在感ですよね。
北巨摩の昔の民家には何処も、西と北に大木が横一列に家を守るように植えられていました。あの景色を見て『八ヶ岳おろし』の厳しさ想像した者でした。
お忙しい(であろう)中のコメントありがとうございます。
私は子供時代も現在の甲斐市住まいだったので八ツは馴染みの山でした。
左からいうと「編笠・西ギボシ・東ギボシ・権現・中・阿弥陀・赤・横」で八つの峰と勝手に納得していたものです。
「風の三郎ヶ岳」という呼称がどの地域でのことなのか、それはわかりませんが、現在の北杜市一帯での風除けの屋敷林などを見るに付け、また自分の、冬の寒風の記憶からも甲州の広範囲で「風の三郎ヶ岳」という呼び名があったとしても不思議ではないと感じました。
ではなぜ世の中ではいまの権現岳が風の三郎ヶ岳だということになっているのでしょう。
これは不思議なことですね。
明治以降、地図作りが行われ、山の名前が統一されていく中で「風の三郎ヶ岳」は消えてしまった。その過程の中であの峰の名が信州側の「擬宝珠岳」が採用され、甲州側の名前が人々の記憶から消えていってしまったのでしょうか。
宮沢賢治に「風の三郎ヶ岳」の話をしたのであろう、韮崎の保坂嘉内のころには、まだそれがどの峰のことなのか知られていたのかもしれないですね。
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