信濃、飯田市の隣の阿智村には、満蒙開拓記念館と武田信玄墓地があります。それぞれ関心深く、訪ねたいと前々から思っていて、機会が来ました。
母は旧満洲国の生まれで、敗戦の年16歳で難民となりソ連に追われ苦難の帰国をしました。満鉄の建築士だった母の父はソ連に拐われ行方知れずのままです。
信州は耕地が狹いため貧しく、国策の満洲移民、開拓義勇軍の募集に乗せられて全国一、満洲移民の多い県です。
こんな僻地の記念館なのに、かなり沢山の訪問者がいて、地図を指差し話しあう老人たちもたくさんきています。知っている人は知っているけど、知らないけど知りたい人はここに来て見るが良いと思います。
ソ連が何故あんなに酷い仕打ちをしたのか、最近読んだ「シベリア出兵」でわかりました。日本はその27年前、ロシア革命干渉戦争で、シベリアに7年に渡り救援を口実に軍を派遣し、民兵と区別の付かない一般市民を沢山殺したのです。ロシア人はそれを忘れていなかったのです。
死んだ父方の祖父は、「国策にだけは乗ってはいけない。国の勧めるうまい話を信じて欲をかくなよ」と僕に言いました。国内で築いたささやかな財産は何もかもすべてとられて40代で徴兵され、命だけかろうじてとられずに北支戦線から帰還できました。
満蒙記念館の隣の長岳寺は天台宗のお寺で、武田信玄の墓が有ります。信玄は、三方ヶ原や野田城の戦いで徳川家康をギャフンと言わせたけれど寿命が付きて衰え、甲斐へ帰る途上の、阿智村の山間地で死没しました。長岳寺はその最寄りの古刹で、ここで仮の供養を極秘でした寺です。影武者を立て、信玄の死は秘密にされました。豊橋では、信玄が攻めてきた野田城城址、吉祥山中腹の陣場、仁連木城なども訪ね、奥三河の信玄行軍ルートも一部歩いていたから感慨もあります。
この長岳寺の住職が、戦後、滿洲に置き去りになった日本人残留孤児の帰還運動の中心になったお坊さんでした。
伊那谷にはローメン(肉麺)はじめ、滿洲渡来と思われる日本風中華料理店がかなり多いのも、帰還者が多かったせいと思われます。飯田駅前の大衆食堂は新京亭。旧満洲国首都、現在の長春の以前の名前です。新京と聞いて、その意味を分かる人はもう多くは無いかもしれません。
ヨネさん、おはようございます。
空木だったか越百だったかの帰りに南木曽読書を訪ねたことがありました。角田房子の「墓標なき八万の死者」で満州に「読書(よみかき)村」があったのを思い出したからです。この村から800人もの人が満州三江省へ渡っていました。日本へ帰れたのは僅かな人数しかありません。
現在は静かな山里で、当時のことは墓標に刻まれた碑文でのみ知るだけです。
「あんなこともあったのだ」と後世に残したい記録です。
南木曽の読書といえば昨年土石流災害で街の真ん中がデブリを通ったところでしたね。木曽川の狹い沢筋に寄り添うような集落でした。次男三男じゃ耕作地なんかなかったでしょうね。なんで1920年代の日本は、有り余る労働力の使いみちを国内での産業ではなく、海外入植、海外侵攻に舵をきったのでしょうねえ。
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