先日父(1934生まれ)と話して、我が家の曽祖父は明治45(1912)年の松本大火を機に安原町で紺屋(こうや・染物店のこと)を暖簾分けされて独立する以前、餌差町の桝屋という屋号の紺屋で、丁稚奉公していたと聞いた。餌指町で桝屋を探したが見当たらず。父の話では少し前までは店開いていたと聞いたが。餌差町にある古い造り酒屋の善哉酒造は小規模な古い店構えの造り酒屋で、仕事帰りでもまだ店を開けていた。お婆様が出てきて、6本くらいの酒をまずは飲め!と、試飲させてくれた。このあたりは女鳥羽川がカーブするあたりで、いい湧き水が出るところで、「女鳥羽の泉」という銘柄で出しています。酒造の前では湧き水を市民がポリタンで汲んでいく。
婆様に、今は締めた桝屋の場所を聞いたり、このあたりの古い話を聞いたりで親交を深め、一本買って帰宅する。酒粕も。古い店の建具がヘタってきているというが、アルミサッシなんかに変えてはいけませんよという話をして、隙間風はガムテじゃなくて和紙で塞ぐと良い話などした。
その曽祖父が嫁にもらったのは、大きな羽振りの良い小池町の材木商の娘だったが、丙午(ひのえうま)生まれだったため、格下だった紺屋の丁稚が嫁にもらうことができた。実家がお金持ちだったおかげで資金援助あって安原町に店を出せたのだろうという話だった。祖父の末弟を以前訪ねた時、曽祖父のことを才覚のある人だったようだよ、と聞いていたので、紺屋は大きくなったようだ。
その丙午の曾祖母の実家の材木屋を小池町に探したが、その向かいだと父に聞いた徳武竹材店で尋ねても、そこの嫁さん(と言っても老婆)と話しても、それはとなりの宮村町の通りではないか?というような話に終わった。いずれ古地図で確かめる必要がある。竹材店のおばさんは、竹はもう需要もないし良い竹の作り手も目利きも減った。息子もあとを継げるほどの経験も積めていない。もうすぐ店も仕舞うと思うとのこと。改めて倉庫を見渡せば美しい竹材が林立していた。こんな竹を組んで家の柵なんか組みたいものだが。
先日の父との話では、私が生まれた時(1964年)父は、この先の人形町(生安寺小路)で鯉のぼりを買い、この店で竿竹を買って、肩に担いで家まで帰ったと聞いた。長さ4間以上はあろうかという竹一本を担いで30分歩いて帰れるほど、往来に車も多くは走っていなかった悠長な時代だったということか。こんど物干し竿を買いに来ようと思った。
この町人町は、間口が狭く奥が長い敷地ばかりだから、紺屋ばかりだったと言っていた。紺屋は、解いた着物を一枚の長い反物に接ぎ合わせて染め、長〜く干せる細長い庭と豊かな水が必要なのだ。うちの祖父(1907年生まれ)が裏庭でよくやっていた。それにここは湧き水が多い。
祖父は次男だったのであとは継がず、京都へ丁稚に行き、その後壬生寺近くで店も持ったが、戦況悪化で36歳にもなって兵隊に取られて皆失い、戦後一家無一文で松本に帰ってきたが寄る辺なく、安原町の本家の狹い土蔵などに暮らした。長男である父が借金して、同心町に10人家族が住める小さな家と反物を干せる庭を持てたのは、戦後20年近くも経った1962年のことだった。
三三年ぶりに戻って、先祖の出自を探るなんて如何にも心楽しい事ですね。当時の材木商なら相当羽振りは良かったものと想像します。
その丙午の曾祖母ですが、60年に一度の丙午は1906年か1846年で、祖父を産んだのが1歳か61歳で、計算が合わないことが判明。丙午の年ではなく丙午の日生まれだったのか。これも追って調べる宿題になりました。
松本では、古い店と見れば上がり込んで老人の昔話を聞いています。面白い。今聞かなくては絶えてしまうし、聞いたら書いて置かなければ脳も忘れる。少年ではないから。
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