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広い福島県には中核の町が福島、会津、いわき(平と小名浜)と三つもあり、その真ん中の交差点に位置する小さな宿場町だった郡山が、明治以降急速に都市化しました。その理由が今までよくわからなかったのですが、きょう展示を見てようやく分かりました。
明治初頭に国家事業の開拓事業があり、それまで原野だった安積郡(郡山一帯の郡名)に維新後の全国の浪人藩士が開墾に投入され、人口が一挙に膨らんだのです。まあ、北海道開拓みたいな物でした。それで各城下町のちょうど真ん中にある地形的理由から、人口も増えた事だし、郡山には県庁以外はいろいろ集まるようになったのだそうです。そのひとつとして、一時は福島、会津、平にあった旧制中学を、一県一校の方針になった際に真ん中の郡山に集めたそうです。津軽の弘前と、南部の八戸のちょうど真ん中に、明治になってから都市化した青森と似ています。ではどうして、巨大開拓国家プロジェクトが、国内の他の町ではなくこの郡山で行われたのか?はまだ分かりません。
強く思うのですが、学校という物は、それまで予想もしなかった知の異次元へ、自分の精神が変わって行く体験をする装置ですから、現実離れした、瀟洒な建築がふさわしいと思います。明治から戦前期の学校にはそんな機能と構造が設計してあって、まったくうらやましい。学びの校舎は、古い物ほどいいと思います。
安積疏水と水田開拓事業も、当時の大事業だったと思います。
私は、福島高校だったので、磐城高校、安積高校、会津高校などとのライバル意識は、教員を通じて、体験しました。
江戸時代までは、会津が、米・学問・武力で、頭一つ、抜けていたように感じてきました。
野球部だったので、安積高校のグラウンドでは、練習試合や、県大会の練習などもしました。
エッ?野球部ですか。先日開成山球場で、高校野球県大会決勝を見たので、なまなましい記憶です。現場で見ていると、オリャァ!とかトリャァアア!とか言っていていいもんですね。聖光が勝ちました。
「安積疏水」がはじめ一日読めなくて困りました。「麓山公園」も。
僕の出身の信州も各都市に対抗意識あるせいか、よその土地を旅行すると都市の地理的環境や歴史的成り立ちを知りたくなります。
会津が頭一つ抜けていた理由はズバリ、盆地の中の盆地だったためじゃないかと思います。
おはようございます。
矢板に『山縣有朋記念館』というのがあって、建物の雰囲気が似た感じなので思い出しました。館内には、原野を開拓する浪人者みたいな壁画があった覚えがあります。
調べてみると、有朋が広大な官有地の払い下げを受けて那須野ヶ原に山縣牧場を拓いたのが1886年(明治19年)とのこと。余談ですが、前職で得た知見によると、那須〜白河〜郡山の辺りは、首都防衛の要衝とのことでした。西南の役が1877年、後期屯田兵が1888年以降、日清戦争1895年。とのこと、維新戦争後のあぶれた浪人者が悪さしないように開拓大事業があったのではないでしょうか。そこから蝦夷地や大陸に渡った荒くれ者も多いのかなぁと想像してみました。
近頃は池波正太郎を愛読していますが、時代小説を読んでいると江戸幕府も維新政府も、政情・国情が安定するまでに30年くらいはあの手この手で外様大名や浪人者を中央から遠ざけていたみたいですね。
ところで、うちの子の小学校も耐震補強工事のおかげで薄暗い感じです。教育の場が薄暗い・狭っ苦しいのは残念
ああ、荒くれ武士の収容先だったのか。ホンネはどこもなかなか書いてくれませんね。首都防衛の要衝なるほどなあ。西南戦争の影響があるんだなあ。
薄暗いと言えば最近新築の県庁はじめ役場の類いも廊下がめちゃ狭い。人と当たりそうで困ります。安普請ですね。
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