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1924年生まれ、復員して北大予科に入学なので、新旧学制の狭間の世代。日高の最後の積雪期未踏峰群の初登記録者(イドンナップ岳)。卒業後地質学研究者として初期の第4次1960南極観測隊員。読んだ本は、それから20年近くたった1979〜80年に隊長として再度南極派遣のときの紀行。盤石になった昭和基地の様子と、野蛮だった頃の20年前の回想との記録である。
この中で、1960年の日本唯一の南極遭難死、福島紳隊員が基地からほんの少しのところで風速30m、視界1mもないブリザードで遭難死した話があった。山岳部出身者の木崎氏たちは、吹き溜まりに穴を掘って、一晩猛吹雪が収まるのを耐えたが、その経験のなかった福島氏は死んでしまった。私がイグルーに執着するのは、山登りとは、自然の猛威の中でどうしても生きて帰れないのかと手持ちの知恵と環境で工夫して帰還するところに真髄があると思うからなのだ。
62年前の30歳台のときの南極は、まだあるのかないのかもわからない山脈を探して、測量し地質を調べ、地形図と地質図を刻むという場所だった。昭和基地から延々何百キロもクレバスだらけの雪原を雪上車で進み、地平線から山脈を見つけ、6っつの山頂を登る、標高2470mのやまと山脈遠征記録も、行ってみなくては標高もわからなかった最後の未知の領域探検記として読んだ。
この本を書いたときの木崎氏は56歳、今の私とほぼ同じ年だ。いま越冬隊長で南極に居る山岳部後輩の澤柿氏もその年だ。やはり過去数回の南極参加体験との経年ぶりを感じていることだろうか。この本を書いた頃、確か映画の南極物語が作られ、澤柿氏はそれを見て南極に行こうと決め、山岳部入学部したと言っていた気がする。
木崎氏は晩年絵画を嗜んでいた。南極隊員たちは、未知の山で、測量、地質調査、写真撮影に加え、スケッチをこなすシーンが有る。19世紀以来のテラ・インコグニタ探検史ではみなうまくスケッチを描く。写真フィルムなんか寒くて破れそうだ。スケッチは探検家の素養のひとつだろう。僕も絵を習ってみたいな、などとぼんやり思う。
https://igloosky.com/2022/04/20/survival-under-blizzard/
この日記の内容を拝見して、なんだか気になり自分の本棚をみると、、
「南極大陸の歴史を探る」木崎甲子郎氏 著 (岩波新書;1973)
という新書がありました。
地学系の道を進んだ従兄弟から、私が中学生の頃に譲ってもらったものです。
従兄弟からもらったものの、中学生の私には少し難しく、当時はあまり良く理解できなかった本ですが、改めて読み返してみると、1973年の出版にして既に、プレートテクトニクスの観点から、南極大陸の地史を書いたものでした。
こういうのを読むと、日本には偉大な先人が多いなぁ、と改めて感じます。
おお、ありましたか。木崎さんはその頃、プレートテクトニクスを巡って北大の地質学教室主流派に疎まれ(そちらも山岳部OB)南極、海外、琉球大にまで行ってしまった人のようです。もう皆鬼籍に入ってます。
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