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山際には古くからの山麓集落があり扇状地には清水が流れ、石垣で平らにした敷地に古民家がひしめいています。100年前までは水も燃料も食料も手に入る人気の住宅街と思います。とても懐かしい佇まい。よく散歩に来ます。
地形図には紅葉のところにお宮の印があり、山麓集落から直登ルートが書いてあるのに、その取り付きを探してウロウロ。公道とも私道ともわからぬ細い道が竹藪の中にあり、朽ちた山麓の宮があった。といっても、三神像の前に朽ちた神楽殿のみ。狭い傾斜地になぜか神楽殿。そこから廃れた直登道を地下足袋でノシノシ登る。針葉樹はほとんど松の木で乾いた植生、松枯れも多いが枯れていないのも多い。一本北の尾根はほぼ全滅だから時間の問題か。
お宮があり、立派な神楽殿もあった。紅葉はもみじではなく桜の樹だった。そういえば、春にこのあたりに咲いていたのを下から見たのを思い出した。7mほど木登りして見ると、ウチも見えた。
お宮には1934年に日露戦役三十周年の石灯籠あり、神楽殿と本殿の建築の感じからこの頃のもののようだ。もともとあった山の神の祠を大いに手直ししたのだろう。山麓の人々の共同作業で。その後も1973年に町内全戸の普請で作ったと石碑に書いてある御手水用の細い水管から、今も水が通じている。1980年代までは整備もされていたようだ。あの桜の樹もおそらく1980年代に植えたものだろう。
町会代表の名に米寿とあった。おそらく日露戦争で近親者や親友がバタバタ死んだ世代だ。この山麓にも松本五十連隊から出征した息子の墓(連隊長のサインがあるものも多い)があちこちにある。今とは全く違う常識と道徳と理念の時代とはいえ死者を弔う気持ちは、むしろ今以上だろう。里山を歩いていると戦没者慰霊碑はだいたい戦後二十〜三十年経った頃、故郷を見下ろす丘の上に同世代が作ることが多いようだ。それもその後五十年経ち死者を知る人がいなくなるとお参りする人はいなくなる。お墓とは、生き残った人のための場所なのだ。
この明治末期世代の古老が生きていた1970年〜80年代は、この山村でも普請(ふしん)が行われ水道が引かれたり、石垣を直したりした事がわかる。90年代以降の日本は、一気に全員が物質的に豊かになったので普請は死語になり、業者に外注するのが普通になった。住民は簡単な土木作業ができなくなった。
そして2024年。この山の上のお宮は登り50分ほどだったが、自動車道のないお宮の管理をする人は今の時代ほぼいないだろう。自動車に乗るような人は、山の神の意味さえわからない。
このお宮には裏側から立派な薬研堀の山仕事道が続いてきていた。上の方へもずっと続いている。古代から100年前には薪炭需要もあって、もっと人が入って仕事していた山で、山の神の祠があったのだろう。松(荒れ地に生える)が多いのもそのせいだ。しかし1960年代以降に原油依存、木材輸入社会になってから森は人々に不要になり、緑を増した。温暖化でマツクイムシが流行り、松が枯れた。
今は誰も歩かない森に行き、私は自由と孤独を喫して、思索にふけることができる。
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-7482272.html
前にお墓について書いたこと
https://www.yamareco.com/modules/diary/826-detail-312893
https://www.yamareco.com/modules/diary/826-detail-272668
日本はまだ比較的山が自由なのは、大多数が山を知らないからですね。人が押しかけたら、どんどん厄介事は増えていくかもしれません。でも、人口も減るし、都会に集中してくれるみたいだし。
清水湧き水は、山の端の集落ですね。
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