そのノンフィクションコーナーで著者名数冊前に差してあった石井光太著の単行本「浮浪児1945」を手にして表紙にハッとしまた、序章の遺書にもモッテイカレて、グイグイとレジへと背中を押されながらも、辛うじて文庫本に同書を見出して済んでのところで差し替えレジへと差し出し購入に至った。
その序章「遺書」は15歳少年の書き残したモノとは到底思えないような作文で、時代とは言え如何にも悲しい文章だった。
石井光太氏の著作は初めて読んだ。家内が「絶対貧困」の単行本を持っていたけれど読むに至らなかった。とある雑誌でイボ人間の写真付き文章を読んで、些か毒気が強すぎたのがその理由だったと思う。
この方の書き口には、人間の行動や物事の発想の手順をキッチリ踏んでいるところに説得力を感じる。
何と言えばいいのか、現代人には到底理解の及ばない「残飯シチュー」の様にごった煮で苛烈な領域で、小学生年齢の親を亡くした孤立無援の子供たちが生き抜いていた事実と、多様で底深い懊悩の世界だった。
物乞い、スリ、カツアゲ、シケモク、ヒロポン、テキヤ、パンパン、火バシ、自殺、虐待、、、滔々、、、等々。
第五終章で著者は、過酷だった浮浪児たちの人生から「生きることの本質」や「人間としての芯」についての接近を試み、その意味を考えようとしている。
金、家族、仕事、信頼、友情、名声等を、戦争体験によって篩に掛け、生きる本質を炙り出そうとしている。
石井氏の「日本は何を失ったか」の問いに冨本氏、
「そうだな、、、、、、人間らしさ、かな、、、、、、、人がちゃんと人とつながっているということだよ。」
かつては戦争孤児を受け入れ、いまでは被虐待児を入所させる『愛児の家』の石渡裕氏「(孤児とは言え、親を亡くすまでは親に愛され可愛がられた)あの時代の子はみんな強かった。人間としての根っこがしっかりとしていた。対して(家庭内暴力の犠牲者としての)今の子供はその根っこの部分が弱い、芯が出来ていない、自分を支えるものが無い。」
皆、生きるため生き抜くために「がむしゃらだった」と。
筒井氏「あの年齢、あの場所、あのひもじさでしかできない体験だったから貴重だってこともあるやろうな。もう一ぺん浮浪児になるのは嫌だけど、あの日々を振り返る度に楽しい気持ちになるよ。若い人は食べ物や住む所に困らんからそういうことはわからんよね。」
なぜか内二人が岐阜に関連のある人物だった(実名でエエのか)。
次回上京の際には、上野駅地下道不忍口改札に当時のままあるという大きな柱に、地べたの石畳に触れてみようと思う。
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