それを読んでいただいたotkmeさんがさらに実踏見分され、レコに書かれている。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-552082.html
その中で私のコメントへの返信として、こんなことが書かれていた。
「台座の神紋は調べてみたら棕櫚の紋ですね。富士氏の流れ、浅間神社を管理していた社家の紋。
八ヶ岳とは背比べの喧嘩の伝説もあるコノハナノサクヤヒメを祀る神社の紋が、イワナガヒメの八ヶ岳山頂近くにある。これもまた謎です。」
いや、これは重要な情報だった。「家紋」!
実は私も、この遺構の正面に彫られている家紋は何だろうと調べたのだが手がかりがなかったのであっさりと諦めていた。
しかし、それが「シュロの紋=富士山信仰の紋」だとは。
確かにネット検索してみれば、かの台座の家紋は「棕櫚紋」で間違いなさそうだ。
家紋が大きな手がかりになるとは・・・・。
だが、ここでちょっと引っかかるものがあった。
一つは棕櫚紋の上に書かれている「八」らしき文様。そしてもう一つは「棕櫚紋」に重なっている「三」の文様だ。
「八」は八ヶ岳を表すのか、単に「山」の文様なのか?こちらはわずかばかりの追求では手がかりがなかった。
しかし、「三」の方は!!
これ家紋でいうと「丸に三つ引き」というらしい。その家紋を使っていたのが、かの近藤勇なんだという。
おいおい、急に新撰組かよ、というヒンシュクの声が聞こえてきそうだね。(^^)
近藤の足取りを辿るとこんなことが書いてあった。
・1863年(文久3年)02月08日 浪士組、江戸を出発。中山道で京都に向かう。
・1863年(文久3年)04月10日 浪士組、京都に到着。
ということは、文久3年の春には近藤らは中山道で長野を通過しているらしい。
中山道の宿場六十九次を見れば「29番下諏訪宿」だ。
そしてかの遺構が赤岳竜頭峰に奉納されたのは、台座に書かれているように「元治元年5月=1864年」。つまり近藤勇一行が長野を通過した約一年後というタイミング。
近藤が諏訪宿あたりでなにかの縁で山岳信仰の話を聞き及んで、自分の守護のために神像を奉納したいと願い出たとしたら。
で、自分のために棕櫚紋に「三つ引き紋」を重ねるようにリクエストしたとしたら・・・。
そこから像を造り始めて、翌年の雪解けとともに竜頭峰に神像が建てられたというのは無理のない時間経過じゃないだろうか。
こう考えないと、なぜ台座の「棕櫚」家紋に「丸に三つ引き」が重なっているのか説明がつかない。
いや、しかし自分でもあまりな「珍説」だとは思うのだが・・・・
写真)totoroさん撮影の神像台座部分。
おやおや・・どえらい話になってますね
ただ、京に向かった浪士組は路銀の工面もたいへんだったそうですから、残念ながら奉納するような余裕はなかったのでは?
ただ、家紋という目の付け所は面白いですね
次々と出てくる難問奇問(笑
こりゃ興味尽きない八ヶ岳ですね
でわでわ
参考になる情報ありがとうございます。
東京から京都に行く途中で、そんな浪費をする余裕(心と資金と)があったのか?(^^)とは思いましたが、さすがの近藤さんですから誰か強力なスポンサーでもいたのかと思いました。
やっぱり、そんな散財をする余裕はなかったんでしょうかね。
しかし浪士組にはもともと幕府側から資金が出ていたという話もあったようで、京都でもさほどお金に困ったようでもありません。まあ、真実はわからないですね。
ご覧のとおり、家紋は棕櫚家紋と三つ引きが重なっているのは確か。
これをどう説明できるかなんですが・・・・。
pasocomさん、こんばんは^^
あら、私の父方の実家の家紋も近藤勇と一緒「丸に三つ引き」ですよん
ぜんぜん関係ないですね、失礼しました
いやあ(^^)、ひょっとしてCasuminさんのお父上は近藤氏と親戚では?
または足利氏の流れを汲む一族は「丸にいくつ引き」家紋が多いそうです。
どうも今回の推理は誰も本気にしてくれませんねえ。
まあ、書いた本人も「うそっぽい」って思っているくらいだから・・・・(^^)
北村氏の本では、江戸時代諏訪にあった小川村が奉納したもとあり、富国諏訪という文字も、そういうことだな、とは思ってましたが、真ん中の印は謎ですね。
otkmeさんのレコもよませていただきましたが、コノハナノサクヤヒメ、という単語に引っかかるものを感じました。漢字では、木花咲耶姫。これは、守屋山、立石コースを登ると、浅間(せんげん)の滝という場所があり、そこには木花咲耶姫を祭ってあります。なぜここに?と思いましたが、諏訪も、浅間神社、木花咲耶姫と何らかの関わりを持つのでしょうね。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-117273.html
さらに、そのものズバリ、茅野市小泉山には、頂上近くに富士山を思わせるすり鉢状の穴があり、富士浅間神社があります。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-138496.html
甲斐国志では、北口本宮冨士浅間神社について、
”往古ヨリ此社中ヲ諏方ノ森ト称スルハ、浅間明神勧請セザル以前ヨリ諏方明神鎮座アル故ナリト云、古文書二諏方ノ森浅間明神トアル是ナリ。” とあり、もともと諏訪神社があったところに、浅間神社を作ったようです。また、山中湖の山中浅間神社は、山中諏訪神社と今も併設されているようです。
Wikiで浅間神社を調べると、以下のようにあります。
甲斐国に浅間神が祀られる経緯については、六国史の一書『日本三代実録』に以下のように記されている。
貞観6年(864年)5月25日、富士山の貞観大噴火が始まり、大被害が発生[11]。
貞観6年(864年)7月17日、噴火により八代郡の本栖海(本栖湖)と剗の海が埋没[12]。
貞観6年(864年)8月5日、占いにより、噴火が起こったのは駿河国浅間名神における祭祀怠慢によるものと解され、甲斐国でも祭祀するべきと下命[13]。
貞観7年(865年)12月9日、浅間明神祠が祀られ官社に列した。その経緯として、浅間明神が伴真貞に神がかりし甲斐国に神社を定めることを求めた。そして勅により真貞を祝として甲斐国八代郡家の南に神宮を建てた。その後立派な社が造営された。そして官社に預かることとなった[14]。
貞観7年(865年)12月20日、甲斐国山梨郡にも同様に浅間明神を祭祀[15]。
全国に、千を超える浅間神社があるのは、これがきっかけのようです。
諏訪神社はその前より日本中にありますが(多分、数千箇所のレベル)、上記富士山噴火がきっかけて、お上よりの命で浅間神社が生まれ、諏訪神社も浅間神社に鞍替えしたり、本家の諏訪エリアでも山岳に関わることは諏訪神社ではなく浅間神社を祭っている、と思われます。
棕櫚紋を使っているということは、この奉納は浅間神社としての奉納でしょう。さらに、八ケ岳をあしらった冠をつけ、通りかかった近藤勇の三つ引き紋を重ねた? 三つ引き紋が近藤勇か?はかなりの飛躍があり要検証ですね。旧小川村の神社や名家を探すとなにか手がかりがあるかも。旧小川村は、中洲地区の下金子付近とか北村氏の本には書かれていたような。中洲地区の1番地は、諏訪神社の大もと、上社のあるところです。
詳細な検討結果をありがとうございます。参考になります。
かの紋をotkmeさんが「棕櫚紋」と見切って下さったおかげでずいぶんいろいろなことが見えてきたような気がします。
「棕櫚紋」を調べると第一に「富士氏=富士浅間神社本宮の宮司」の紋として知られているようです。
ただ、調べているうちに「棕櫚紋」と非常に似ているものとして「羽団扇紋」というのが見つかりました。
「羽団扇(はうちわ)」とは、かの天狗が持っていたもので、本来は鳥の羽で作られていたので「羽」の字なのだそうです。
ところが、後世になって富士氏の家紋と混同が進んで、なぜか天狗の団扇が棕櫚の葉になってしまったのだとか。だから「葉団扇」では本来間違いな訳です。
ネットでも「棕櫚紋」と「羽団扇紋」については「同じもの」とする意見と「別物」だという意見があり大混乱です。また羽団扇紋はそもそも羽団扇=棕櫚の葉になってしまった後のものであって図柄は棕櫚の葉なのだとか。
ですから両者の絵柄を比べても素人目に区別つかないです。
「棕櫚紋」なら富士山信仰に関係しそうですが、「羽団扇紋」だとどうなるか。
「羽団扇」はもちろん天狗を意味し、天狗=修験者です。「修験道の寺社紋、その信仰者・関係者の家紋である。」というページもありました。
また「羽団扇は古くから悪鬼を払い、霊威を呼び寄せるという意味合いで、神事などにも用いられてきた。」との説明も。
私が思うに、この台座のものは「棕櫚紋」と考えるより、「羽団扇紋」とした方がすっきりしそうな気がします。
江戸時代、まだ八ヶ岳も修験者の行場だったでしょう。そこになんの為か神像を建てるとしたら、そこに山岳信仰のシンボルである羽団扇紋を描いたのかもしれません。
それにしても貞観6年の富士山噴火からのどたばた劇。
「噴火が起こったのは・・・祭祀怠慢によるものと解され、甲斐国でも祭祀するべきと下命。」(^^)
そこであわてて、あちらこちらに浅間神社を建てて官位を連発したのですね。してみると権現岳の檜峰神社の貞観10年の官位受領もやはりこの一連の流れの中と考えるのがますます自然に思えてきました。
近藤勇については、思いつき。。。いやはや。
もちろん「丸に三つ引き」は彼だけのものじゃないですし。
もう少し別の推察が必要そうです。
山に丸三といえば、信州人には御岳山百草丸なですが、近藤さんの家紋も一部これなんですね。
http://hino-seiyaku.com/hyakuso/010.html
面白い情報をありがとうございました。
「山丸三マーク」は、「山」に当たる「八」の線がクロスしていないところがわずかに違うようですが、確かにこの台座のものに酷似していますね。
また「丸三」のほうはもうぴったり。
ご紹介のページによれば「三本線の真ん中の線は大日如来、上の線は不動明王、下の線は摩利支天を意味する。」と。
これは、例によって山岳信仰そのものを想起させられます。
ただちょっとネットで調べた限りでは、この「山丸三マーク」は御嶽山以外の山では使用されている様子がない。まさに御嶽山信仰のトレードマークのようですね。
八ヶ岳に建つ神像に御嶽山信仰が絡んでくるというのは少々無理がありそうだし、像自体も御嶽山に尻を向けている状況(^^)。
ただ、「丸三」も家紋というよりも「羽団扇」と同様に山岳信仰のシンボルと考えることも出来るのかもしれません。
貴重な情報をありがとうございました。
パソコムさん
どちらのマークも「へ」「へ」が重なっていて、同じ印に見えます。
山丸三マークでは、アルプスダケさんが前に書いてましたね。
http://www.yamareco.com/modules/diary/6266-detail-47386
富士山を描いた昔のマークで、「へ」が三つ重なっていたのをどこかで見たような気がするのですが。
再度のコメントありがとうございます。
些細な話ですが、台座の「八」は左右の線が頭を付き合わせているだけでクロスしていないです。
(真ん中に線が入っています)
クロスしているといかにも山のデザインかと思うのですが、クロスしていないと漢字の八の字に見えますね。
しかもその八の字の線が猫の手のように丸くなっている。これは御嶽山の「山」とは随分違って見えます。
私はそれよりも「丸三」の方がなにやら謂われがありそうで気になるのですが・・・。
何だか知らない間に話がすごく壮大になってきて面白くなってきましたねえ。
家紋、棕櫚の紋と羽団扇の辺りはぼくも調べていてぶつかりました。そして御嶽百草丸!子供の頃、父に何かというとこれを飲まされた記憶がよみがえりました。
丸に三つ引きに代表される引両紋は近藤家に限らず武家に多いらしいですね。一覧を見ると登山家にも多く、木暮重太郎翁や三浦雄一郎さんなんかの家紋もこれなんですね。
http://www.ippongi.com/2011/12/23/hikiryou-2/
少し気になるのは、台座に記された元治元年に暗殺された長野出身の兵学者、佐久間象山の家紋も丸に三つ引きだった事。とはいえ当初の疑問、遺構の向いている方角に関する答えとはどんどん遠ざかってしまうのですが...
何はともあれ、赤岳ひとつとってもこんなに色々な歴史のドラマがあるなんて。本当に面白い山ですねえ。
otkmeさんのレコから始まった話ですが、なかなかご本人が登場してくださらないなあ、と思っていました。
「近藤勇」にあきれかえってしまったんじゃないか?などと・・・(^^)
しかしよく考えれば、願主がいるなら当然遺構にその名が刻まれるはず。台座には「鋳物師 小島某・・・」とだけ名があるらしいのですが、してみると、どうも製作者=願主なんじゃないでしょうか。
小島家というのは諏訪一円で何代も続いた鋳物師の家系なんだとか。
しかしいまのところ小島家の家紋が何なのかはわかりません。
それに二つの家紋を重ねるなどという話があるんでしょうか。これが最大の疑問。
それにしても「しょうざん・さくま先生も〜♪」三つ引き紋でしたか(^^)
どうしましょうかねえ・・・
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