90年代後半くらいから表題の二つの言い方がはやりだしたのですが、どうしても違和感があり、自分の口からは出ません。 日本語と英語の文法から来る思考の違いの本を読んでいて、 これは英語の影響を受けた言葉なんだと気がつきました。
金谷武洋氏はモントリオールの大学で日本語を教えている文法研究家で、前に「日本語に主語はいらない」で衝撃的に面白い読書をしましたが、今回中学生向けの同じ内容の本を読みました。
動詞が人称によって活用する欧米語は、主語を決めないと動詞の語尾が決まらないので、必ず文の中に人称代名詞が必要ですが、日本語は、述語があれば他はマストではない。「あかちゃんだ」「泣いた」「かわいいね」など。主語マスト思考の言語の文法ではこれを「主語が省略されているのだ」と、解釈してきましたが、そもそもそんなに必要ないのです。言うと野暮なのです。野暮。
英語の直訳文が野暮なのは、俺が、おまえが、彼の、彼女に、とイチイチ言わなきゃ行けないところで、「寒いね」「寒いねえ」というようなやりとりに人称は出てこなくていいのが日本語なのです。「俺と君が寒いと感じる」のではなくて、「(俺や君は)寒いって感じる場に共存している」という、共感、共視の体験を言葉にしているのです。
で表題の二つの「はやり言葉」が、野暮なのです。感動や勇気は、誰かから誰かにやりとりするものではなく、わいてくるものなんです。湧いてきた「状態」を、他者と共有して共感する言葉なのです。やりとりする「行為」ではないのです。まして、人称を特定して、明らかにするような「野暮」が、違和感なのです。
英語映画の吹き替え字幕にこそふさわしい言い回しが日本語のはやり言葉になってきたのだなあ。英語がこれだけ世界を席巻した理由の一つに、この、野暮なほど「俺が」「俺が」を言う、言葉の構造からくる「押しまくり」思想もあります。英語で話すととたんに自己主張の強い人格になりますから。でも英語話者の間ではそれが標準なのです。
でも、日本語の中で、英語的思想のことばは、やっぱり今のところ違和感ありありです。いや、ない人もいるのかな。世代は変わり言葉は変わるけど、それに自覚的ではありたいですね。
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こんばんは。
全く同感です。
似たようなので「元気をもらう」なんて表現もありますよね。
違うだろ、元気が出て来ただろ・・
なんてブツブツ言ってますよ(笑)
「感動を与える」に違和感があるのは、上から目線に聞こえるからで、第三者が「誰それの〇〇は人々に感動を与えた」なら違和感なく入ってきます。
本人が言うなら「感動してもらえるように〇〇する」というべきでしょうね。
「勇気をもらう」は、「勇気づけらた」か「〇〇を見て勇気が湧いてきた」の方が自然に聞こえます。
こういう違和感を感じる表現は、それが新しいように思えて、流行りだしたのではないかと思っています。
日本人が日本語に体現してきて努めてきた文化が、上から目線にならないように気遣う姿勢だったという気がします。ここ30年ほどで英語的ビジネスや、英語的システムをグローバル化と称して取り込み続け、遂に「嘘でも言い張れば逃げ切れる」ような極端なものまで、今は激変期なんですね。
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