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熊野詣でのオプションの、太地へドルフィンスイミングに出掛けた折に見覚えのある名を付した記念館を見掛ける。
んんっ、石垣栄太郎! あの石垣栄太郎?
そう、ここ太地は栄太郎の出生地だという。何という幸運!
石垣栄太郎の名は日本近代洋画家の一人といった程度の認識だが、立ち位置が少々微妙で「日本の」の冠を付すには些かの抵抗を感じる。
石垣は、日露戦争勝利の代償として陥った国内の食糧危機・経済不況に対する打開策としての移民奨励に乗る形で渡米した人々のうちの一人で、そんな一連の移民たちの中から国吉康雄、清水登之(トシ)そして石垣といった後に名を残す近代画家が生まれたのは何とも面白い。明治以降、それまでの大半の日本画家が向った留学先がフランスを中心としたヨーロッパを目的地としたのに対し、新興の地アメリカを目指したこれら画家たちは単に貧しい移民でしかなく、若くして渡米した後には厳しい人種差別、貧困とに耐え、それらを糧にして自らの画業の「根」とした。
日本人洋画家としては珍しい型だと思うが、特段誰某の影響下で画業を重ねていった訳でもなく(彼の地の美学校には通った)、むしろ苛烈な生活環境に向き合う中で片山潜との邂逅もあり社会主義思想に染まっていったことが彼の人生を決定づけた。勿論そもそもの画才はあったことだろう(新宮中学時代の写生にも見るべきものが確かにある)。それゆえにか?それら絵が誰にも似ていない、模倣から解放されている一点で、彼の彼らしさが画に現れている。労働者目線の、暗褐色を多用した色調で大作をものしている。
イルカ疲れで皆が高揚後、一人入館する。
「太地町立石垣記念館」は、あくまで記念館であって美術館ではない。
学芸員も置かず、受け付けは近所の美熟女でおそらくきっと石垣栄太郎の日本近代洋画界での立ち位置についても何ら知識は無い模様だった。
「石垣栄太郎記念館」でないのは、ここが栄太郎氏の画業を後生に伝えようと考えた彼の妻であり評論家として知られた石垣綾子が私財を投じて建設し太地町へ寄贈したもので、彼女の業績についても展示コーナーが設けてあるため。大恐慌の年に結婚した綾子氏、流れていた映像中では艱難辛苦を乗り越えて、時には死線をもかい潜って帰国した海千山千の女としてファッション共々極めて個性的な人物に映った。
主だった作品は東京国立近代美術館、和歌山県立近代美術館(2002年晩秋の大滝登りの帰途、潮岬経由で立ち寄ったものの折悪しく休館日だった)に収蔵されており、ここではデッサンが中心の展示で加えて油彩が10点ほど、あとは生前愛用のアトリエでの品々が寂しく置かれていた。
レッドパージに遭い国外追放の果てに帰朝、絵を描く「根」っこを失った石垣は、かつての佐伯祐三同様に国内での新たな主題も画法をも探ることなく没してしまう。アメリカ社会に育まれ、画家としてそこでしか生き得なかった「アメリカの」画家だった。
退館し、遥かアメリカにも繋がる森浦湾を眺め、昔日に思いを馳せる。
さあ、勝浦にマグロを食べに行こう。
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