どこにって、美濃に在った。
有名かといわれると、決してそうではない。
何故ならば、美濃に生まれて十人居た母の兄妹達が作っただけの会で、それら10人がお金をプールして祖父祖母への贈り物をしたり、誕生日に宴席を持ったり、バスを仕立てて旅行を企ててみたりと、そんな集まりの呼称だった。
十の福の会で「じっぷくかい(美濃読み)」か、良い呼称だと思う。思えば福の神みたいな禿げオヤジが幾人も居たなぁ。私の頭も母方の血を強く引いてしまった様である。
その十福も「櫛の歯」抜け今や四福になってしまった。それが寂しい。
私が小学五年の春の頃、その十福会主催の越前温泉旅行へ出掛けた際に我が家も家族四名で参加し、その往路のバス内でカラオケのマイクが廻って来て父親がオロオロする場面があった。当時は今ほどにカラオケ熱も無くマイクで唄う場面に出くわすこと自体少なかったものの、親父の不慣れさその狼狽の様、オロオロする姿に子供心にも「嗚呼、頼り無い情けない」と思ってしまったことが事の始まりだと記憶する。
短絡に「男である俺がシッカリしてこの家族を建てていかねば」と。
小学生の小僧のクセに何を生意気な、と今にして思うが当時は真剣だったのだ。
特性がある訳でもないのにそういった意に反した思い込みにより、自分を過剰に追い立てるかのような行動を起こしていたと今にして思う。その延長線上で、級長をしたりレギュラーでもないのに少年野球主将をやったり、児童会役員などにも就いた。挙手ではないものの、発する雰囲気から推されることが多かったと記憶する。それら無理の祟ったストレス起因であろう、抜毛症や爪噛皮剥の自傷行為があった。後者は未だ35年継続している。
親にはなるべく依存せず、極力自力でまずは大学を目指した。今日日の子供のように、通学で親を頼ったことは怪我をした一日を除いて無かったし、塾には一切頼らず思い出せば一番活用していたのは旺文社提供「大学受験ラヂオ講座」だった。「ハリスのリズムで楽習英単語」など、思い返せば懐かし過ぎる。後に、あの作家?ロバートハリスの父がこのJ・B・ハリス氏であると知るのは周遊旅行七年後のことだった。世の中は、色色と彼方此方で繋がっている。
進研ゼミの添削式通信教育講座も受けてはいたが、余り活用できていたとは言えない。私の志望するその大学に進学できた将来の先輩に宛てる質問コーナーで、籍を置くであろうその大学での具体的な疑問質問将来期待を見もしない先達にブチかましていたのが有用な最大活用だった。
入った大学ではその反動故か学業そっちのけで川に山にと八面六臂の?遊びようで、超低空飛行にて卒業、その後更に瘋癲時代が34の結婚まで10年続く。
「俺がこの家族を建てていかねば」は何処へ。
紆余曲折、私も今や人の親となりにけり。
そうして思うに、どうやら親父は他人同様我が子である私に対してどう向き合えば良いのか、未だ判りかねている風だ。
八十歳にして。
何故そう思うのか。その根拠は?
それはその息子である私も同様だからである。
息子と二人で登山に出掛ける日を迎えることは果たしてあるだろうか?
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