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2017年03月03日 08:08全体に公開

焚火

 前回焚火をしたのが家族との事で昨年11/13、その前の回が以下の母と息子と3人の火熾しだったと記憶する。

 癌告知の丁度一週後の6/27、その三人で曇天下の多少風のある初夏らしからぬ夕刻、いつもの河原で細やかな火を焚いた。
 母のたっての意向で、これまで書き溜めたノート類を焼却してしまいたいとのことだった。
 火熾しなら任せてくれ。

 熱心にノートを千切っては燃し千切っては燃す母の姿を、私はビールを飲みながらボンヤリと眺めた。
 実際やってみると判ることだが、ノートや書籍類ってそのまま火にくべても実に燃えないもので、一冊一冊破ったり、千切ったり、ズラしたり撹拌したり撫で摩ったりと、手を掛けないことには燃やしきることが出来ないのデス。
 定年退職して以降のことだから、15年以上は書き続けたのだろう。

 何をどのように系統立てて勉強すればいいのかが判らなかった母は、録画した情報テレビ番組から発せられる生活の知恵に始まり歴史から、時事問題、医療、法律等々を網羅的に、言うなれば当てずっぽうに書いて、書いて、書きまくった結果、大学ノートにビッシリと細かな字で書き綴られたその量たるや、段ボール二箱分!

 癌告知を受けて、死期を悟っての生前「お焚き上げ」と言ってよかろうか。

 「何でこの私がっ、発生頻度10万人に12人/年の病気にっ、更には進行性の悪性のガンに罹るかよっ!」
と、もしたとい河原で大声で叫んでみても別段私もタケオも咎めもしなかったはずだが、実際の母はそうはせず、ただ淡々と燃し続ける。
 人生の上で終始一貫、取り乱すことの無い母だった。

 私にもできるだろうか。
 そんな諦観の境地に立てるだろうか。
 細やかだった火が、業火と化した。

 その後の自宅療養中の夜、体力を落としては癌にも負けてしまうとばかりに、私の盛盛り作った夕食を摂った後に毎度散歩をするよう心掛けていた。
 まだ手を添えれば何とか歩行が可能な時期に、団地内をクルクル廻った(出掛けたはいいが、帰りの体力が尽きて負んで(背負って)帰ったこともあった)。
 「この家の下の娘さんはミキ(姉)と同級に居ったけど、最近出戻ったげな」とか、「アンタと同じ学年のここの娘は稲沢に嫁いだそうやけど、姑とソリが合わんそうで出戻ったげな」「アンタにチョコくれたここの直美ちゃん、デラ別嬪さんになっとったよ」等々のミニ知識を私にそれこそ授けまくってくれた。
 そんな中、母はポソッと「何でこんな病気に罹ってまったんやろなぁ。」と独り言ち、振り向きざまこうも言った。
 「次にこの世に生まれ変わってくることがあったら、今度はちゃ〜んとした学校へ行ってキチッと勉強してみたいわぁ。」
 「おう、あのノートの調子のお母はんやったら結構な線で行けるかもな。」
 時代に恵まれただけで私の様な平凡な頭の人間でも大学に行けたのだから。
 おっとそれ以前に、金も無いのに六年も遠くの大学に通わせてくれてありがとう。

 そうや、将来、大学で二人待ち合わせるか。えぇ大学やぞぉ、北大は。
 そんでもって日高山脈の、沢の焚火に語ろうや。えぇ山脈(やま)やぞぉ、日高は。

 二十億光年彼方の、互いの光の輪が重なる向こう側で、また会いましょう。
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