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「舌の根の乾かぬ内の病院見舞」いやそうではない。
入院していた母の死去により病院見舞が終わったかと思いきや、間髪おかず選りにも選って母の通夜日に今度は父が心身の衰弱により救急車搬送の入院をし(結果、父は母の葬儀に参列を果せず)葬儀を終えたその足で父を見舞うこととなった。
やいやいや、けたたましいサイレン音付で、盛り上げ過ぎだぜお父っつぁん。
数か月前には同グリン病院(仮称)で貧血+ヘルニア入院の姉を見舞った側だったというのに。
新たな病院を訪れて、これまでのように息を詰めて階段を上る際、その段数や色の違いに気付いて「ああ、母はもう居ないのだ」と自然、認識された。
また親父への食事介助をしている時、母に同じことをしたのが思い出されて目頭が熱くなった。
食べ残しの粉砕食を勿体無いと私が食べれば同様に思い出して、また同様に目頭胃頭が熱くなって、、、、だがこれはどうにも美味しくない。
今現在、親父の入院する同院は、夕食の介助時に来院するとヤンチャ親父が騒いだり呼び出しブザーがブーブービービーピンポンポンと鳴る中々の賑わしさで、翡翠色服のドクターはじめ小豆色したマスク着用率98%の看護師たちがバタバタと立ち回る姿が常態としてある。
比べちゃ悪いが、先週まで母の見舞いで通院していたGN病院の緩和ケア病棟の静けさといったらなかった。
そりゃ、終末期を迎えた方々が入院するフロアなので(端っこ部屋で時折呼び立てるオッサン一名を除いて)母と私にピッタリの(?)穏やかな雰囲気に包まれていた。
緩和ケアセンター長の西村医師のキメ細やかな御配慮とその統率の下、硬過ぎずまた緩みも無くいい塩梅で患者、そして家族への精神的身体的ケアが為されていた。
加えて看護師も押し並べて穏やか、美人率も高く、故に図らずも「毎日通わされてしまう」空気が横溢していた。
ただ、恐らくグリン病院の入院病棟がよくある風景なのであってGN病院のソレが特別なのは理解しているつもりだ。
グリン病院の医師看護師、食事介助者は実に大変そうだ。
訪問すると当たり前のように介助を仕向けられる。やりますよ、私は。この半年の事を思えば何でもない。
今朝のラジオにもあったがどこの病院の看護師介助者も同様に多大の御苦労を負っているのだから。
昨夕は、父の病室で姉と合流し、一週前と同様に一時間以上話した。
母の事、父の事、これまでの事、そしてこれからの事を。
昨日は雛祭りで、母存命ならば両親の金婚式だった。あと5日だったというのに。
加えて三日後には父の81の誕生日を控えている。
丁度一週前は、2時間近くも母を前にして姉と話し込み(寝たきり状態でも聴覚が一番最後まで残ると看護師はいう)それを聞いて安心したのだろうか、その翌日には看護師から死期の近いのを知らされその翌朝には逝った。
母については癌告知からの逝去までの明瞭に限定された期間のお陰で、しておきたいことせねばならぬこと、将又親子の関係や家族親族、自身のことと思慮を持って考える機会を図らずも与えられた。
私は携帯電話もスマートフォンもテレビも持ち合わせないけれど、日頃から多少なり新聞雑誌パソコンから溢れ出る情報に弄ばれて「考える」という基本的行為をないがしろにしがちなこの時代にして貴重な機会を与え呉れた母には感謝したい。
現在進行形の今の見舞い通院だけれども、登山での体験同様に、後に振り返り見た私の人生の中で誠に尊い経験としてこの期間は記憶に残るに違いない。
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