|
|
亡き母も言っていたし、家内も言うのだがヤッパリチョット変わった人物だった。
愛知県人特有の、でもなく。いや、多少そのケはあったろうか。
宇宙人、と称したのは家内だが詰まるところ、人間達とどう渡り合っていけばいいのかよく判らなかったのだと。
それは、娶った妻とも、そして授かった子供たちについても同様に。
どう向き合えばいいのか、ヨクワカラナカッタ。
この、息子である私に関心を寄せる素振りを見せない父に対して、随分な間ストレスを感じ受け続けた。
野球部でキャプテンになろうが、学校で級長になろうが生徒会役員になろうが絵画賞をとろうが「ほう、それは能くやったな。」という声掛けは一切なかった。
進学校に合格しようが高2でバイトして自転車で北海道周遊しようが北大に現役合格果たそうが「ほう」のほの字もなかった。
二留年するようなマイナス行為には反応し、辛うじて卒業しても山ばかり登り続けることにも反応し「何しとんのや」。地球一周して無事帰ってきては「ほう」も無く。
そんな父の無関心に対して、正直なところ悲しみを越えた怒りの感情を持ち続けた。
ただ、帰郷しても学習塾を開いていたとは言え定職にあらず、そんな中で結婚を果たした際には「鬼の目にも涙や。」と母に言わしめた、落涙とは言わないけれど目を潤ませたことは記憶に残る。
生まれた子供の抱き方に、上記のソレがよく現れていた。「どう扱えばいいのか、ヨクワカラナイ」
母はよく言っていた。「厳しいお婆さんやったで、きっと優しく抱かれた記憶がないんやろうなぁ」
物事を好意的に捉えられない、他人の目を意識しすぎる、どう立ち振る舞えばいいのか、ヨクワカラナイ。これら特質は、間違いなく私にも、またその息子にも引き継がれている。
後年、遂には私の行為と目的が逆転して、本に出ることや雑誌に掲載されることが「今度はどうやっ」の試しの場にさえなっていた。アレレ。
母の発病以降、親父は目に見えて老いてゆき、母が緩和ケア病棟に入って以降は更に力や眼光ををなくしていった。
傍で見て気の毒な姿に映るのに並行して、私の親父への怒りの感情も冷めていった。赦し、か。
まぁ、そういった育ちの人生だったのだ。仕様がない。こんな人生の型もあるのだ。
母を見舞った病室で、姉とそんな親父に対する思いの話をしていた翌日に容態の変化があって死去したのは、父同様であった。
父を見舞った病室で、姉とそんな親父の過去への思いを話していた翌日に容態の変化があって死去したのは、母同様であった。
母も父も、あのような病床だったが間違いなく話は通じていた。
不思議だったが、耳は聞こえていた。
葬儀後、義兄に「今年は大変やったな。これで二人共居らんくなってまったなぁ。」と言われ、改めて今となって両の親を亡くしたことを認識した。
もう、居ない。
月並みだが、二人彼岸でノンビリしてくんせぇ。
我々は我々で、此岸でチャキチャキ生きますで。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する