古道具屋の隅で埃を被ったレコードコーナー冷やかせば、フリードリヒ・グルダのベートーベン・ピアノソナタが324円で置かれていたのを見つけた。何という時代か。
グルダはクラシックは元よりジャズにも介入したピアニストで、クラシック界での評価は知らないけれど殊ジャズ界ではジャズにも色目を使ったクラシックのピアニスト、という認識具合である。ジャズピアノのお勧めヂィスクにグルダのそれが入ることはまず無い。
ここで、嫌が応にも先だって聴いたばかりのゼルキンのレコードと、グルダのソレとを聴き比べることとなる。
アドリブではなく、譜面に即して演奏するその僅かな差異を聴き比べること自体にさして意味があるとは思えない。それを思うと即興という演奏行為への興味が逆に湧く。あのピアニスト南博氏がキース・ジャレットのピアノソロ「フェイシング・ユー」に激しく打たれたように。
クラシックを味わえるか、それとも味わえずにジャズを嗜好するかの一線はその点にあろう。技巧の点では勿論クラシック演奏に分がある。今はただ、ピアノソロとしてそれらを観賞しているに過ぎない。
これ程に才気溢れるピアニストが譜面という予定調和の世界で生きざるを得ないのがクラシックだとするならば、ジャズの即興演奏にグルダ氏が興味を持つのも理解できる気がする。MJQのピアニスト、ジョン・ルイスがクラシックに接近を試みたのはグルダとの鏡写しなのだろうか。
後日、またしても108円で買ってきたヴィルヘルム・ケンプのベートーヴェン冬の、いやピアノソナタを聴く機会を得るも、テンポが微妙に違っているものの演奏内容はほぼ同じ。
また、小澤征爾に指揮者になるよう勧めたという、佐賀出身の豊増昇のピアノソナタも同時に聞いた。これはハイドンとモーツァルトというが淡白で私には意外に好ましい。
しかしこれら聴き方はきっと誤った観賞法なのだろう、と思う。
その後ケンプと一緒に100円+税で買ってきた、MJQではなくてYMOやら郡上踊りやら、ナベサダ&チャーリー・マリアーノやらハリー・べラフォンテやらを聴いて午後の時間を過ごした。
かつての価値多き音楽ソースもグルっと一回りして今やゴミ扱いである。何という時代か。
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