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●オリンピックはクライミング部門での野口啓代氏のご活躍に喜んだ一人である私はボルダリングをしたことはない。
●高瀬川支流の西沢に登りに行ったときのこと。今を遡ること16年前の2005年のことで、同行者は石川の青氏と愛知の成氏であった。
高瀬ダムに封印されたこの沢の記録は登山大系以外に見ることはなく、殊青氏と私にとっては懸案の沢にあった。地図の通り、噂以上に地形は厳しく、最強コンビのお二人ですら強気に押せないこの谷では高捲き中心の遡行に終始した。青氏以上には「どう登ったか」に拘りのない私はひとまずトレース出来たことに満足し、話はそれからのこと。
登攀奮闘的な沢ではよくあることだが、日程の運びが半端になることが度々あって、稜線に出たのが早い時間で、我々には時間があった。
西沢源頭の右手先には野口五郎岳が控えており、コレに立つのがまず順当である。詰め上がった稜線から標高差は100もない、登って至極当然な山頂である。にもかかわらず、というよりも当時の(本州の山に明るくなかった)私にはその価値も判らず、何を思ったか野口をアタックすることなくその詰めた地点から百名山と言うだけで知った水晶岳をロングアタックしたのだった。分岐に荷を放っての駆け足アタックだった。
成氏は野口五郎岳登頂後「掘って待っとるわ」と、湯俣温泉を選択した。
青氏はというと、以前から気になっていた湯俣川を単身下降する、と。
三者三様に好き勝手な行動をとる、それも不確定な要素ある沢登り(正確には沢下り)を含んだバラバラ行動で、今の危機管理意識からはかなりズレていた我々であった。
当時、台湾遡行を志す我々のような人種は行きたいとなれば難しい沢だろうが単独ででも行ってしまう、「台湾溯行同人」はそんな連中の集まりだった。ために台湾遡行が縁で集った今回の山行でもこのような行動をとっても不安な思いは全く持っていなかったと記憶する。よしんば事故でも起こして帰ってこなかったりしたら大問題になりそうな、今では考えられないようなことをこの頃は平気でしていたものだった。まあ、何かあったら一番問題にしそうだったのは当の青氏だったんだけれど。
●私の母方の叔父は、かの野口五郎と上京前に美濃町で共演していたというのが自慢の種だった。私の野口五郎岳再訪?の直前に息子さんからその叔父が癌で、8月一杯が山だと電話連絡あったこのタイミングの不思議さを思った。笑福亭仁鶴に千葉真一、そしてジェリー藤尾と訃報が続く。叔父には今しばらくは生き永らえて欲しい。コロナで見舞うことすら叶わないこのご時世である。
そして、、、、かつて登り損ねて思いを残してきたそんな野口五郎岳に再び登り着くのに果たして16年も掛けてしまった。たったの100mに。
●尚、野口五郎氏は野口五郎岳小屋に立ち寄ったことはないとの小屋情報だった。ので野口五郎氏は野口五郎岳に登ったことはないものと思われる。違っていたらスミマセン。
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