コロナ禍で、キャンプ流行りだと言う。今を溯ること38年前の中学生時分に同級生と連れ立って津保川上流へ、もしくは家族とキャンプを目的に羽咋へ出掛けた事はある。ただ、山に登る者にとってキャンプとは、山頂を目指すための手段でありこそすれ目的にはなり得ない行為に思う。しかし今日日はソロキャンプなどと言う言葉も生まれて大の大人がそれ自体を目的とするもののようである。
先々週、何年か振りに登って気付いたけれど、クラック含めたフリークライミングも、そもそもルートを登るための手段であったはずが目的に転じて独立した一ジャンルを成す時代となった。そして今やオリンピック競技と言う。追求するに値する世界だとは思うけれど、これに違和を感じるのは私がオールドスクール出身だからだろうか。
「手段と目的」;この手の言葉遊びが好きな私は、日々個人的に活用していてあれやこれやと思う。お金は生活を豊かにするものに違いないけれど、お金を稼ぐ事は人生をマシなものとするための手段であって目的ではない。ただ、お金無しで暮らそうという、そこまでの決意もない凡夫の私は日々、労働に勤しむ。そのお金を稼ぐ行為、労働も人生を豊かにするための目的ではなく手段か? となると目的は幸福感? いや、手段ではなく目的なのか?
そもそも登山は? 豊かな人生に向けた手段か? 目的なのか?
Buck Clyton(バック・クレイトン)のブルーズを聴きながら、そんなことをつらつらと考える、ボタン雪降る正午である。
今日は雪霙雨の模様で家に籠っています。
毎度関心をそそる日記を提供してくれてありがとうございます。
明治維新で合本主義(≒資本主義)が導入されてから日本人は拝金度が増してきたように思うのは私だけでしょうか。マネーは生活の糧になる手段であることを忘れ、マネーを得ることが目的になっているように見受けられます。生物としての目的は子孫を残し種を存続させることに尽きる「生きていくこと」が唯一の目的(使命)だと考えます。考える葦と自認している人類であれば、「徳を積む」とか「人間性を磨く」とか「全てを愛する」とか、崇高な+αを目的に加えたいですね。しかしながら、今や徳より得が重視されるようになってしまったと思います。人生に登場してくる様々な物事は手段、もちろんどんな登山も所詮手段です。修験もロックもフリーもインドアも外岩も手段であり、そういう見方からはオーソドックスな登山と同列に位置するものだと思います。それどころか手段にもなり得ない単なる趣味嗜好でしかないのかも。それらを目的と勘違いしていくと、人生の終盤でしっぺ返しが待っているかもしれません。注意したいものです。
名人伝(中島敦著)の弓の達人・紀昌が弓を忘れ引かなくなった話、弓の修業が手段だったのにいつの間にか目的化してしまっていたことに気が付いたからだとの解釈も成り立ちます。
コメントに感謝します。
拝金主義が蔓延って、金銭や損得という物差しが人生の軽重を測る便利な道具として利用されたのが戦後の話で、いや、人生を意味あるものとして暮らす目的の下で拝金主義という手段が蔓延った順序でしょうか?
休暇が多くてその上ボーナスの多く得られる良い就職、得するポイント制度、享受できる欲得は出来得る限りに収得したい思い、隣の人より良い暮らし、これはもう人間の性なのでしょうか。
今日、降雪休暇になって偶々観られたフィギアスケート男子で、羽生氏が何を思ったかに思いを馳せるとまた人生とは、目的とは手段とはを考え今を生きることを考える土俵として得難いシーンに思われました。4年間の時間と努力の圧縮の場で、成果を出す、出せないことの重みを。
手近かにあるもので創意工夫し、生活をより良いものにしようという努力を日々、怠らないように留意したい思いです。
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