NHKの街角ピアノは、私が唯一好んで観るテレビ番組で昨秋「駅ピアノ旭川駅編」でお姉さんが弾くショパンに大いに心動かされた。調べればそれは「スケルツォ第1番 ロ短調 Op.20」という曲だった。
この演奏で”火が点い”て以降、同曲を色々と聴いた。イーヴォ・ポゴレリチ、ヴラディーミル・アシュケナージのCDを買い求めては聴き、ユーチューブで角野隼人等々を聴き、、、、。円原の「Phin and Bean」でも聴かせてもらった。正確無比な運指、きらびやかな?曲想、圧倒的な打鍵、こんな難曲を演奏する方もする方だが、どうやったらこんな曲が捻り出されるのか? 1835年に出版されたこのピアノ独奏曲に、病的なまでの気配を感じる(のは私だけだろうか?)。目まぐるしく変化する天候を写し取ったのか、将又乱高下する心象の風景か。
と、あれやこれやと違う演奏を聴き進んでみたものの、徐々にそれらにスリルを感じることができなくなったのは私の求めているものと別の方を向いているからだろう。
難しい曲を譜面に従って演奏する。打鍵の強弱や間の取り方で、凡そ10分間の曲全体を演奏する構成に、各演奏者が個性を発揮する。それらを感じ取るのが、あれこれと同曲の演奏を漁って聴いた期間だったと思っている。
これに、予め設定されグレーディングされたクライミングルートを登る昨今のフリークライミングを重ねるのは私だけだろうか?
ショパンが設定した難しいルートを登るフリークライマー;ポゴレリチ、アシュケナージ、かてぃん(Cateen)各氏。其々の、違った(スタイリッシュな)ムーブでのレッドポイント。
私の興味はそこにはない。
パッと目にして「あっ、コレは登ってみたい」岩だとか、地図を睨んで見つけた不思議地形の踏査、過去資料を読んでそこに流された血と汗に感化されて「私も追体験してみたい」ラインやルート、そんな自分の感性に従って私は私の登山を今後も継続していきたいと、改めて思った視聴体験だった。
ジャズを聴く中で、テクニックは貧弱でも訥々と奏でられる演奏にも心揺さぶるものが多くあることを私は知っている。モンクの「煙が目にしみる」とか。
誰も登っていないけれど、岩が指し示す好意的なラインがまだまだ身近に眠っていることを、私は知っている。手垢にまみれていないその自然の好意を、行為で会得する。岩や沢や雪と対話する。発見と、実践。
グレードを求めるスポーツクライミングの盛んな今となっては見向きもされない志向だろうけれど、私の周りには極めて少数ながらこの手の同志、登山仲間が居ること自体が幸いなことに思う。登り続けてきて良かったと最近、頓に思う。
※スケルツォ;諧謔曲
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