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前作「JOKER(2019)」は中々に衝撃的な映画だったが、本作「JOKER Folie à Deux」はその収監中の主人公がレディー・ガガに、歌に触れて揺す振られて自らを、悪の存在を炙り出そうとする作品、というと大雑把でしょうか。音楽の始まりはバカラックの「What the World Needs Now Is Love」。私にとってはサミー・デイビスJrでありリタ・ライスの、あの歌唱である。
本映画の「Folie à Deux;フォリ・ア・ドゥ」は仏語で”二人狂い”の共有精神性障害という意味らしい。映画中で唄われる歌唱が殊の外素晴らしい。whisper;囁くように唄われるホアキン、ガガの退廃的でジャジーなユーフォリア(多幸感)に心底ウットリした。並のジャズシンガーでは太刀打ちできまい。「Bewitched」には不覚にも落涙した。年取ると、こうも涙脆くなるものか。前作同様、危機管理の点での建て付けの甘さは不問としよう、フィクションなのだから。酒こそ出ないが劇中、美味そうに深々と煙草を呑むシーン多々。改心という「裏切り」の果てにリーを喪失し、同じ収監者にメッタ刺殺されるラストがいやはや何とも形容し難い。人が人を裁く不思議さ。
別段、本映画を観たからというわけでもないけれど、ここ最近思うことを映画を鑑賞しながら繰り返し考えていた。
人生と言っては大袈裟だが、人間というものをそぎ落とした先に、果たして一体何が残るのだろうかという思いだった。家族に不満はなくむしろ家族とあることに救われている。頑丈な妻、山の長男川の長女、お茶目な次女に岳父、丈母。山仲間には恵まれており、それでも虚しい夏を過ごし、自分にとっての登山が何なのかを考えた。林業という仕事に対しては自分の意のままに作業を進められておりストレスはない。キツいけれど、一工程一工程に面白味も感じられている。日々勉強。でも何故これで給料が貰えるのか?
スマホいじって知ってもいないことをさも知ったかのように勘違いする。旨いものを呑み食いたがり、損だ得だと騒いで一体何の意味があるのか? 馬鹿ぢゃないの!? 三大欲求から逃れられない。著名人に気に掛けて貰えていい気になる。そんな底の浅さにウンザリする。そんな中でfine Artとgood musicだけは手放せず、美術館に足を向け、レコードでJazzを聴く。猿ではなく文化的な人間でありたいと願う思いからだろうか。本は読めなくなってきた。
それにしても何故、未だにあの山にだけは登りたいと強く念ずるのだろう。
ただ、私が欲しがっているのは手応えのある体験なのだろう。林業と、登山。映画と絵画、音楽がそれらを補強する。ただ子供騙しの体験なんぞ欲しくない。
今わの際に私は何を思うのだろう。掌に残った何かに微笑むのか、将又すってんてんで何も無いことに安堵するのか。
ジョーカーに対して「死ぬのが怖いのか?」とは愚問である。死が怖い?
観られて良かった。
49にしてあの額の皺の深さ!兄のリバー・フェニックスが存命だったらと考えて観ている方もいるのではないでしょうか。
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