日比野和美氏、御年六十九才。
奥美濃の登山界隈では名の知れたお方で、かつての岳人誌にも御登場の機会があったのでヤマレコ内でご存知の方もいるのではなかろうか。
今回来訪のそもそものきっかけは、ご近所登山の先輩である石際氏が揖斐の山中で日比野氏と偶然にもお会いしたことに端を発する。
日比野氏はこれまでに奥美濃の主に沢にまつわる三冊の記録集を自費出版されており、今年新たに四冊目「百山百渓(4)」を上梓されて、その恵与を受けた石氏から情報提供頂き、私も電話連絡差し上げたのが11月の中旬。送料込みでお幾らで頒布願えるか、と電話口にて問えば
「君は何処に住んどるんや?」
「岐阜の○●橋の傍です」
「週末はどうしてる?百々ヶ峰に登りに行きついでに持って行ってやるわ」
「・・・・ほ、ホントニ?」
実のところ日比野氏への電話はこれが初めてではなかった。
今を遡ること25年前、沢登りを北海道で齧り出した大学2、3年の頃帰省の折に今は無き岐阜の大衆書房で「百山百渓(2)」を見つけた時には小躍りしたものだった。奥付には住所と電話番号が付記してあった。
その際早速「百山百渓(1)」の残部が無いか直接氏へ電話したことがかつて一度あった。
手元には残部無くて済まないが、岐阜県立図書館には置いてあるはずだからコピー取るのはどうか?との助言を頂き、押っ取り刀で長良橋の袂へ向かった覚えがある。
函館や札幌、そして岐阜へ戻ってからもそれはそれはよく開いた本、コピーで、付いた手垢にその頻度が現れている。
家のモンは保育園ママ友の実家のある本巣へ霜の降りた後の柿捥ぎに出掛けた。
室内焚火装置を前にして二人穏やかに、ほうじ茶を飲みながら話し出した。
これまでの話を時間を掛けてユックリと伺った。
地道に遡行を繰り返し、それこそ「気ぃ狂っとった、あの頃は。」と述懐されていたように雪が降ろうが元日だろうが奥方に文句言われようがガソリン代ひと月何万掛かろうが一宮から岐阜の山々に通って通って、記録を集積していったそうだ。
記録にも頻出していた十一歳年長の酒井氏が近年亡くなったこと、所属の各務原山岳会に至るまでの道筋、家族の事、弟氏(岐阜登行会現会長)のこと、過去の遡行履歴では私の良く知る沢仲間の名も挙がった。
森本次男はじめ、奥美濃関連書籍では所謂「薮山」尾根歩きの出版物ばかりだったので、沢から光を当てた奥美濃を語りたかった、結構金も掛かったが自費出版にて情報を広めることで人生を豊かにしてくれた山登りに恩返しがしたかったのだ、との発言もあった。
以前、これももう18年程前の話になるが、函館山岳会の山口俊明氏にお会いした時にも思ったことだったが、周囲に沢登り経験者が居ない環境下で、それでも何とか地域に眠る未知の沢世界へ足を踏み入れ解明したい!といった意気込みで、それこそ「叩き上げ沢ヤ」の”底力”を見せつけられた思いがした。そんな方たちの思いが込められた記録集っていうのは本当に読んでいて惹き込まれる。
探検部の部室でも、山岳部の部室でも、そんなものばかりを探していた記憶がある。
「自費出版して出費もあったんやが、こうやって人との縁ができたことが何よりやったよ」
そういって、暇乞いされた。
「君も貧乏そうやが、登り続けるのが一番や」
お会いして直接話す機会が持てたこと幸いな晩秋の午後でした。
「君も貧乏そうやが、登り続けるのが一番や」
金言もらいました!
美濃界隈で、なんで今まで面会なかったのかというほど、ほかにない二人組ではないですか。
石際さんのブログで読みましたよ。
報告書に実名、住所、電話。昔の報告書はみんなこうでした。
私もまだまだ24年は登れるかと思うと力が漲る思いでした。
昔の「ジャズ批評」誌なんかは、ジャズメンやボーカリスト御本人の住所や電話番号まで列記してあるのがあって、バックナンバーながらにちょっとコーフンします。
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