満月の夜には、色々と起こる。満月の夕(ゆうべ)。
新年度がはじまり、何とかかんとか登校していた坊主が遂に休んだ。
不登校混じりの五年生だったというのに、年度明けの役決めで誰もやりたがらない委員を、皆が挙手しないというだけの理由で手を挙げて受けてしまった、と。(俺ソックリ)
役としての仕事があったというのに休んでしまい、夕刻それも含めて家内は学校の担任の下へ伺った。
これだけ民主主義が蔓延ると、その多様性を認めた結果として様々な種類の人間を許容する下地が世間には必要とされる。
煙草分煙コーナー、クレーム対応部署設置、自動車の自動停止装置等々等々。行き過ぎ、、、では。
「登山の世界はいささか民主的になりすぎた」【イヴォン・ショイナード】
学校でも今、その下地を用意しようという動きはある様だが、対応する側の絶対数が少ないために個々人に照らした対処法は講じにくく、十把一絡げとは言わないまでも、マニュアルに則った対応をする傾向はあるようだ。
特別支援学級や、注意欠陥・多動性障害等の比較的軽度な障害の児童に対する通級学級と、色々な子供たちを受容する器は既にある。
ただ、微妙な線上に立つ子供に対してその軽重を測るためにテストを受けるだの、投薬の必要性を示唆するというのはちょっと行き過ぎに思う。まだ子供だぜ。
話は逸れるが、我が家は投薬・予防注射に抵抗感を持つ”珍しい”家庭らしく、予防接種を受けさせなかっただけで医師から「虐待だ」との言葉を浴びた経験がある。どんな絶対的根拠でそれと断言できるのだろうか?
風邪を引いたら医者に行く? 自らの身体の発する声に耳をそばだてて充分な休養と栄養を摂れば回復するのが生き物なのでは。
医療費無料で風邪引いたら医者に飛び込むようでは当の子供も医師もそりゃ大変だぁよ。
大事なのは「人間色々居るもんだ」という割合感覚を実感する事だと思う。
色々と、居る。普通、って何だ? あとは「程」。
遅かれ早かれ大なり小なり誰しも挫折は経験するものだ。
一番マズイのは挫折を経験しないこと、だと思う。
人生に於いて挫折を経験することなく”逃げ切る”そんな人生に、一体何の意味があろうか。
限られた椅子を取り合い、効率を求め、少しでも多くの受益をと貪る。
人を頼り、また周囲の目を気に掛けて。
挫折にも効用はある。自立への効用。
自由自在【自ラニ由リ自ラニ在ル】。
今朝は早起きして、色々と溜まった家の仕事を片付けていると、西の山の端に白々とした満月が沈んだ。
「満月の夕」は阪神・淡路大震災をきっかけとして産まれ、数々のカバーがなされた名曲で、個人的には酒井俊バージョンをまねて山で時折、がなる。
熊本にも等しく満月は昇り、また沈む。
【追悼;ディーン・ポッター】(一年前になりますが)
小生、中学生の時分に、インフルエンザの集団予防接種を親父の意向で受けなんだ。
皆が保健室に向かった後、教室には3人ほどの生徒が残ったが、社会科教師が『お前ら馬鹿か!お前らの親は阿保か!!インフルエンザになってしまえ!!』などと罵り声をあげていたのを覚えとるよ。
でもって、実姉は医者たらい回しで薬漬けにされ、最後は開頭手術までされて、ここ20年以上、廃人みたいになっとるよ。
医者やら教師やらにしてみれば、医学は絶対的な拠り所なわけで『患者はなんもわかっとらん。お前ら馬鹿か!!』な、心持ちにもなるのじゃろ。
大人は兎角、他人のせいにする仕組みに頼りがちだが、結末というものは神のみぞ知る。医者任せにするもよし。己で切り拓くもよし。
しかし俺ぁ、まっつぁんの少年じみたセンス大好きですぜ。ハゲというのが未だに信じられん。
e-haraどん
ここいら周辺の意向(西洋医学、現代医療に対する不信)は多分に家内のセンスなのだが、基本的立ち位置は同じくするところあって同じ方向を向いて家族共々歩んでいる。
「普通」でないことの、何と生き辛い世の中よ!と憂いてみても始まらんよね。
物事の拠り所は結局のところ『家族』に収斂するものと思う。
学校、地域社会、会社、そして世間に生きる者として負うべき社会的道義はあるけれど、それをおしてもなお『家族』を基調に判断してゆく他はない。
そんな中、未熟な子供と言う立場が脅かされる事態が発生した際には、親として全てを捨ててでも護ってあげなければならない。そうは思えど、父親としての私は未だ未だ未熟であることを自覚しておるよ。
その3人の、いやイーハラ以外のお二人のその後に興味有り。
コメントに感謝する。
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