今回のオリンピックは、私に1984年のロスオリンピック以来の強い印象を植えそうだ。
こんなにテレビで観戦視聴したのも初めての事かも知れない。ダイジェストでだけれど。
殊、福原愛氏には個人・団体と、鼻腔をキュンキュンされられっ放しだった。もう27歳なんだってな。もうあとはカスミちゃんとミマちゃんに任せておけばいいよ。
それと、予想した通りに卓球の水谷隼氏は「ギター侍」波田陽区を引っ張り出してきた。
昨日の霊長類最強女子・吉田沙保里の決勝戦には、涙出た。
陸上、サッカー、レスリング等々、世界レベルで戦う選手の練習シーンを映像で見ると苦しさ半分、自分に適した自己表現の土俵上で力を尽くすことのできる幸福さを感じてしまう。
親に仕向けられて乗せられた土俵もあるだろうけれど、そこに居続けられたというのは適性あってのことだろう。
肉体表現のぶつかり合いの上で順位を決することにも適性はありそうだけれど、そうでない人たちの中に登山を志向する群れも居ることと思う。
小学生時分より他人に対する意識が強過ぎて、団体競技や団体スポーツに身の置き所が無いと感じていたのは何も私だけではなく、今や息子にも強く反映されてしまっている。
そんな中、自分が登山という表現方法と出逢えたことを幸いに思う。
ライブ会場や、陸上競技場等の人の群れ集う場で特に、そう感じる。
地図睨み過去の記録を調べ上げ、想像して思考して試行して、実践する。
体育会系でありながら、じつは文化系の傾向強く、その実やはり汗まみれ。
そこがいい。
●『山って自己の内面投影だから、自分がないと山も存在しないと思います。』
最近メールをくれた、とある方の言葉。流石に物書きは言うことが違う。
また、当時のクライマーに強烈な印象を残して駆け抜けていった故・鈴木謙造氏が、リスカム北壁の記録で「僕は鈴木謙造でよかった」と独り言ちたのは、表現行為としての意味を含んでの事と思う。
●『僕は鈴木謙造でよかった。僕以外のいかなる人物であっても、このようなやり方であのルートを拓いたのであれば、生きて戻ることはできないだろうと思ったからだ。』
2001年7月、ミディ北壁ソロ登攀中に墜死する。享年29。
考えて、登る。登って、考える。
【思索の人として行動し、行動の人として思索せよ】
登るために書くのではない、将又書くために登るのでもない。
登山と言う土俵で物事を表現した上で、登山そのものの意味やワタクシは何者なのかを問いたい。
はじめまして
貴殿の記事に、深く共感いたします。
厚見屋様
コメントありがとうございます。
共感頂いた点、貴殿の記録や日記から読み取れました。
鳳凰三山の変態山行形態は先週私も白山で実践しましたので、明け方の眠々状態よく判ります。ああいうのも、やってみると実に面白いですね。
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