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10年選手といえば、16で就業なら26になり、36から始めた私は早や46になってしまった。
何にしても遅かった。林業と言う幅の広い仕事を考えると遅過ぎる就業だったと今思う。
登山でもそうだが十代の頃と言うのは上達も早く、技術にしても取り巻きの環境を把握するのも覚え、呑み込みもすんなりと早くにいくところが、三十代も後半となるとすべからく遅い。記憶力は言うに及ばず運動能力や運動神経も衰えをきたしてちょっとした怪我や事故に結び付くこともある。その手の「カン」は、この危ない仕事上欠かせない切り札だったりする。
学習塾を閉じた後の就職を考えていた矢先に、家内の知り合いの旦那が近くの森林組合にIターンで就業したと聞き、随分と羨ましく思ったことがある。
当時はチェーンソーがどれくらい便利で重たくて危険な一面があるのかも知らず、間伐とは何かも知らず、スギヒノキの区別もつかず、サステイナブルも森林認証も速水享も国産材の抱える問題や獣害、将又ウッドマイルズて何のこっちゃの無知振りで、だが対人に難あり山に親しんだ身の上としては林業しか思いつかなかった。
経験のある方には判ると思うが、ハローワーク(公共職業安定所)に通っても通っても就職先が中々決まらないもどかしさといったら他に比べるものの無い種の焦燥だった。余りに決まらず自動販売機の缶ジュース充填仕事でもコンビニでも何でももういいや、と捨て鉢な気持ちにもなりがちだった。一度、そんな流れで勤めた食品加工の仕事は給料面はいいとしてもこの先将来、児を持つ身として誇り高く続けていける仕事なのかと自問して、辞めた。アウトドアのガイド会社の面接に行って弾かれ、意気消沈していた矢先にポロッと「いっぺん来てみぃ(大概キツくて勤まる奴はおらんがなぁ)」と声が掛かったのが今居る林業事業体の「うつくしや〜木材」(仮称)だった。ある人には布袋様に、またある人には極道者に、また私には手塚治虫漫画登場の社長にしか見えない社長に連れられての面接を兼ねた初仕事が、大径木伐採現場でのチルホール(牽引具)の直引き!だった。「木が倒れてきたら横に逃げるんやぞ〜、アンタは身が軽そうやでサッと逃げられるやろ」と。今でなら「面倒臭がらずにガイドブロックを介して牽引者の安全を確保しなければ駄目ですよ」と言えるものの、当時は危ないのがまたヨカッタ。何しろ身体を思い切り動かしてヘトヘトのクタクタになるまで労働し、その対価として金を得るスタイルこそが心地良かった。
ただ、過酷でありながら賃金も安いこの仕事に従事し続ける人(特に若者)は中々居らず、怪我をきっかけに辞めていく者や、林業に将来性を見出せないまま他業種へ転職してしまう若い事務職員が私の居る間にも続出した。今や、私が2番目の古株になるほどに社内の新陳代謝(退社?)が進んだ。
5年と8ケ月の現場作業の後に、学歴不問で採用しておきながら大卒ということで異動を命じられ4年と3カ月を事務職員として働き、今日に至っている。
事務職員へと異動した時期は丁度「森林施業計画」から「森林経営計画」への歴史的な移行期に当たり(だからHが辞めたのも一因としてある)、現行の林政のリの字も知らず、補助制度についても無知で、測量業務から林分調査、現場管理まですべて(ほぼ自前で)覚えていく他手立ても無く、それらと同時進行でPCのシステムを使って「森林経営計画」を一から立案しなければならないストレスといったら只事ではなかった。PCなぶるのなんて卒論以来だったから18年振りだった。「お前が計画を作らにゃ、現場が仕事無く喰いっ逸れることになるんや」とまで言われて。未来への希望も見えずに暗澹たる気持ちで過ごした1年だった。
青息吐息で立てた計画は、立たたら立てたで当時の造林補助制度にフィットさせるために調節が必要になり、また大黒様だか布袋様だかが好き放題言うものだから、その後の計画変更に2年は翻弄され続けた。変更する度毎、針に糸を通すような繊細さの要求される作業だった。騒音で耳を悪くしたかと思えば左程の事は無く、ただ目は悪くした。髪も随分と抜けた。
ここまで書いて、疲れた〜。
ここまで来て、現場職と事務職の両方の世界を知れたことは実に良かったと思っている。
林業従事者で共に経験している人間と言うのは実のところ非常に少ない。
どちらも知っていなければ身動き取れないはずなのだが。
腹の出た"自称"林業家にだけはならないよう留意したい。
10年は一昔、でもない。分母が幾つになるかは今後の事だが、人生の何分の一かの長きを投じてきたこの仕事に、誇りは持っている。
同時に、林業を習得するのに10年ではお話にもならない。
「生業として自立できていない林業は、補助金に頼りきった吸血ダニみたいなもんだ」と吐き捨てるように退社していった大学林学卒の男がかつていた。共にあの苦しい時期を乗り越えた同僚だったが、仲間だと思っていたのはこちらだけの思い過ごしだったようだ。そんな彼奴は今や行方知れず。
「林業なんて、もう終わりっすよ」年若い従業員が言う。
そんな軽口を叩く前に、やれるだけの事をやった上で、自分で判断を下したい。
林業は駄目なのか。
林業の今を知るために生きた情報を収集し、未来への突破口(アイデア)を見出すべく常に興味のアンテナを開放して置く。
10年後、56歳の自分は何処にいるのか。
言われてみれば、私も前職を辞して今年で10年。
男だてらに育休なんぞを取ってた頃は、陰に日向にいろいろ云う輩もおったが、今ではいい思い出よ。感じの悪い職安のおばちゃんも、嫌味な訓練校の教官も元気で暮らしておるんかな。
誇りを持てる仕事を続けられるってのは幸せだと思いますぜ。
e-haraさま
俺も育休取得経験があるが、日給月給の世界ではむしろ有難がられる位だったのでイイ思い出で済んでいる。こちらの職安のオバちゃんは中々悪くない感じだったぜ。
冷静に振り返って今が在ることこそが貴いなぁ。
「天職」と言う言葉がある。私は30年前、12年間続けた船乗り稼業をやめて岐阜へ来ました。会社が倒産したからです。文字通り「陸に揚がったカッパ」そのものでした。
浮世の憂さを晴らすため、何かにとり憑かれたように休みがくるたび山へ入りました。そこは自身の気力と体力のみで勝負をさせてくれました。
たぶんmacchanさんの山の仕事はうそ偽りのない、ごまかしの効かない世界でしょう。
お恥ずかしいはなしですが、私の今の職は女房と二人「食う」ためだけのものです。
maasuke1様
僅か100日ばかりの船上生活でしたが、船の世界も独特のモノ(閉鎖空間故の圧迫感、船員の派閥等々)がありますね。私には些か辛い経験でした。
下船して行った山の世界の清新さに改めて感じ入った川浦谷銚子洞だったのを思い出しいました。船内生活って、足腰弱りがちですよね。
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