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日高山脈の沢に親しんだ後とあってまず手始めに向き合った対象は、近さもあって形状の似た木曽山脈、所謂「中央アルプス」の渓谷群だった。木曽山脈の谷は「八百八谷」とも言われるが、山列も単純一列で東西の厚みがないことも手伝い、谷としての深み面白味には欠ける。変化に富む訳でもないけれど日高に似て花崗岩主体の岩盤に清らかな水の流下するそれら渓谷は、流石は三千mに近い山岳から流下するものだけあって風格も備え、一泊二日で何とか登って降りてこられるスケールの沢が多く、一時繁く通った。沢中で人と出会ったことはついぞなく、また谷は人ズレすることもなく気も吐き、遡行者に静かな、それでいて大きな山に一人居る充足を与えてくれた山と谷だ。
私のような、バリバリの登攀系ではない身には程好い遡行内容で、特に危ない目に合うことも無く主に単独で山行を重ねた。
手始めに取りついた越百川がまず良かった。下流域の雰囲気が実に好ましく、翠がかった渓水と肌色花崗岩の配色もそれに加担していた。取水されているために「鍋ツルシの大廊下」も悲壮感なく突破でき、対する上部は内容薄で滝も少なくこれまた私好みの構成だった(直後に名古屋ACC定藤氏の遡行記録が出て驚いた)。
確か当日は、出発時に伊奈川のどれかに入ろうとだけ決めて車を差し向け、直前まで今朝沢か東川かで迷いに迷った挙句「ええい、ままよ」で一番難関沢そうな越百川を選択したはずだ。幸いにして、好意的に迎えてもらえて木曽山脈に好印象を持てた。
越百川で弾みがついた余勢を駆ってその後も木曽谷、伊那谷と通ったが、伊那谷の山行時には恵那山トンネルを通ることになり、金の無かった私は高速料金も節約してトンネル部のみの利用であとは地道に国道を走り続けた。
山行を終え、疲れた身体で美濃までのドライブをこなすことになるのだが、その度毎に私の頭を渦巻く想念があった。
三十も過ぎ、瘋癲でもないけれど未だプラプラと定職ともいえない塾仕事で糊する日々を送り、私の未来は果たして拓けていくのかという漠たる不安だった。
当時は、現妻との仲も定まらぬフラフラな状況で、さりとて定住する美濃蕨生で紙漉き職人になるわけでなし、沢登りに身を投じている間だけがそうした不安感から逃れられる貴重な時間だった。
当時の心配をよそに、今の日常があることを幸いに思う。
一昨日、木曽山脈の沢登りを終えてyoneyama氏との帰途、会話の途切れ間にそんなかつての記憶がふいに甦った。そう、
『鬱勃たるパトスもて、我れ木曽の沢に登れり』(適当言葉でスンマセン)
「鬱勃たるパトス」ですか。。。
macchanさんのもうひとつの顔を見たような気がします。この言葉は哲学ですョ。
こ、これは北杜夫先生の「どくとるマンボウ青春期」からの引用デス。先週末の山行中に沢中で挙がったネタでして。「どくとるマンボウ航海記」は、当の照洋丸乗船中に読みました。
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