その報は函館で聞いた。
事が大き過ぎて、全体像を中々把握できずに報道側も苦労していた程の被害の甚大さだった。
大学講座同級で京都出身のお京さん(仮名)が、呆気にとられた顔をしてテレビ画面を見つめていた姿が忘れられない。
アパート隣で一つ下のゴウド君(苗字が思い出せそうで出てこない;仮名)が神戸出身で、ご家族は無事だったけれど家屋半壊の被害を受けたと聞いた。我々6年目4年生は卒業を間近に控えあれやこれやの慌ただしさを増しつつある最中の震災報道だった。北海道の大学生とはいえ関西出身者も割に多く、被災した家族を持つ学生の話は周囲でチョコチョコ聞いた。当時は声掛けはするものの、見舞いを渡す智恵も常識すらも無かった。
ゴウドは水産学部だけあって?飼い犬に「イワナ」と名付ける程に魚大好き釣り大好き人間で、震災半年前の夏には仲間と渓流釣りに出掛けた際に自己所有車のサイドブレーキの引き忘れとされる過失で、クラスメートを亡くす事故も起していた。ゴウド本人にとっては「泣きっ面に蜂」の忘れ難い年度となったことだろう。「delete」キーを押して消し去ってしまいたい過去かも知れないけれど、それらすべての積み重ねの元で有る、揺るがしようのない今なのだ。
新聞テレビで目にした高速道橋脚倒壊の映像や広大に燃え盛る神戸の街の姿に、復興への道筋を思い浮かべてみるものの、具体的イメージの湧きようもなかった。何から手を付ければよいのか。瓦礫は何処へ?膨大な資金調達は如何様に成されるのか?
大学を卒業して照洋丸に乗船するまでの期間に、退学を考えた際にも前向きな助言を下さり恩のある吹田のナンガマリ氏(仮名)宅へ卒業報告がてら挨拶に伺った。その際「アレは見といた方がエエデ」と言われて神戸まで出掛けた。
被害を受けたそごうデパートにはブルーシートが掛かり、周囲の崩壊状況は復興へは道半ばどころか手が掛かった程度ながらも、前向きな人間達の明日に賭ける思いに中てられて、逆に勇気を得て東へと向かった憶えがある。
なお、その10年後に家内の友人宅のあるその神戸に遊びに行った際、復興なった神戸三宮の駅に立って、元通り綺麗ななりのそごうデパートを見るにつけ、人間ココまでやれるのか、の想いを持った。
本日の岐阜新聞掲載記事に、震災にも絡めて内田樹氏が合気道を通して生きる知恵と力のすべてを投じて「生き延びる力高める」とある(氏が入門し師事した多田宏氏は、早稲田の学生時代に植芝盛平門下となっている)。
私はこの出来事から何を教訓として得たのか。
東日本大震災でも浮かんだ、この事だろうか。
「忘れず、思い続けること」
その報をシンガポールで知りました。神戸はなんども訪れたことのある思い入れの深かった港街です。すべてが破壊し尽されたかのようなテレビの画面に釘付けになりました。22年も経ってしまったのだ。岐阜の家族に電話したが全く通じなかった。
異国の地に居て、あれ程の甚大な災害報道を伝え聞く不安を想像します。ましてや家族と連絡がつかないとなると。
当時は大阪枚方にいたのだけど、そこですら、すごい揺れだった。新築の鉄筋コンクリート造の寮が倒壊するのではという恐怖を感じるくらいだった。
あの時分、神戸山岳会に所属していたから、殆どの会員が被害にあわれたけど、皆、逞しかったなぁ。何か、あっけらかんとした感じで復旧、復興に取り組んでいる様子だった。自分も倒壊した家屋の整理の応援に呼ばれて行ったことがあったけど、その時は楽しげな雰囲気さえあった。ガスストーブでご飯を作っていたが、「こういう時、山の道具を持っていると、便利だわ。」と笑っていた。
同期のsanpeiとは、数日間連絡が付かなくて、非常に心配したりしていたのだが、後で聞くと、なかなか大変な経験をしていた様だ。
例の倒壊した高速道路や下の国道は、しょっちゅう利用していたから、タイミングによっては自分もあの瓦礫に埋まっていたよ。
シェイク様
そりゃまた貴い経験です。思えば私なぞ壮絶な地震の経験が無いのかもしれないと今になって思います。しなくて済むならいいのですが、真に被災者の思いに添う意味で経験すべきだとも考えます。こういう時に山の経験が生きるのは有難いこってす。タイミングによっては、、、恐ろしい。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する