私如きが云うのも何だが、この方は年々考察が深化している。その文章も無駄を削ぎ落とした実に読ませる作文である。岳人誌掲載時にも強く思った最終章「火を持ち歩くということ」は特にそう思う。
服部文祥、この方は間違いなく残るだらう。少なくとも野田知佑よりは後々にまで。
考える登山を実践するお二人の動向には注視している。
そんな中で、私も自分の登山が何を目指して何処にたどり着こうとしているのかを日々ボンボンと考えて登っているつもりでは有る。同時にまたそれを文章にする困難さも感じている。
●海外をぶらついて帰国して、遡行浪人のような生活の中で映画を熱心に観ていた時期がある。
カネは無いけど時間だけは有る、それもタップリと。
正規料金ではとてもぢゃないけど続かない、映画の日だの蠍座という良心的名画座の世話になりながらしつこく観ていた。
金が無いとは言え、レンタルビデヲを借りてきてまで観ることはなかった。第一にムードがない。
1990年後半当時は洋画流行りで過去の邦画などは見向きもされない時代で、上映される機会は殆ど無かった。
それでも観たいとアンテナを張っていると、どこぞの区民センターで上映会が催される情報が入って出掛けて見に行った中に山崎豊子の「ぼんち」などが有った。
今と違ってyou-tubeなんぞ無く、さりとて廉価版の1000円DVDも無かった為に観たくとも邦画は観られなかった。
先日小津作品を観る機会を持つに至り、有り難い時代になったものだと独り言ちた。
フォーエバー「ロイヤル劇場」。
◯自ら描きもしない絵画だが、日本近代洋画にはそれ以前より興味関心を持って観覧の機会を作っては出掛けていた。県立美術館の常設展など入館料はお安いもので。
レンブラントだのカラヴァッジョだの、将又モジリアニだのも良いけれど、日本の洋画、特に西洋から技法が移入された後の黎明、揺籃期の近代洋画に強い関心を持って廻っていた。高橋由一に五姓田義松、満谷国四郎、鹿子木孟郎、須田国太郎、麻生三郎等ちょっと変テコな画家が好みだった。
札幌といえば何を於いても三岸好太郎である。北海道立三岸好太郎美術館には、郡上八幡訪問回数同等位には訪問を重ねた。
◆ジャズは演奏しようと思ったことはついぞ無く、もっぱら鑑賞ばかりだったが教科書的に聴き漁った後に関心を持ち出したのはかつての日本ジャズで(今日日は「和ジャズ」などという造語も生まれた)、海外の模倣から離陸して日本ならではの独自性を打ち出し始めた1970年台以降の演奏に、である。
またアンテナに引っ掛かったお安いライブがあれば大都市札幌に暮らす利点を活かして観るようにもしていた。
★そんなブラブラ時代に何を置いても執心していたのは日高山脈を中心とした沢登りだった。その流れで台湾にも中国本土にも何度か出掛けた。
西洋で生まれたそれら文化【映画】【西洋画】【米ジャズ】【アルピニズム】が、日本という風土の中で【邦画】【日本近代洋画】【和ジャズ】【沢登り】と熟成されたそれぞれに強い関心が有った。
映画ではツァイ・ミンリャンはじめとする台湾人監督映画に、ジャズに至ってはスウェディッシュはじめヨーロピアンジャズにも同様の関心を持って接していた時期がある。
更に言えば、茂木莞爾氏始めとする方々が蒔いた【Sawanobori】という種が、我々が今現在呼称する「台湾遡渓」として現地に如何様な芽吹きをして成った果実の味を現地台湾の方々が享受するのか、にも興味があった。
2017年現在、台湾遡行は素晴らしい役者の登場で世紀末には想像も出来なかった成果が挙げられた。再来週にはその報告も有るという。
台湾という風土での一異文化の成熟は如何に?
そう、函館の和洋折衷家屋も中々悪くなかった。
そして、私は何処へ行こうとしているのだろう。
40万都市岐阜広しと言えどmacchnほど幅広い「文化人」も少ないのではなかろうか。先日私がホハレでお会いした伝説の人物も「数学を専攻した登山家」でした。隠れた「人物」は岐阜のどこかしこに住んでいるものですネ。
三岸節子は三岸好太朗の奥方でしょうか。たしか稲沢か尾西に美術館があったと思います。ずいぶん前に訪れたことがありますが、作品に関してはなにも覚えていません。
マースケ様
恐縮の至りです。浅学を自覚しているために必然として考えなくては世間との折り合いを付けて行けないだけのことです。
節子は早逝の画家三岸好太郎の奥さんです。そう、節子氏の絵画はダンナほどの異端さは無いです。
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