大阪と岐阜の中間点?の鈴鹿で合流し、涼風に吹かれて木陰の花崗岩の机でこれまでやこれからを話し合った。
思えば「海外遡行同人」を興して十年程は参加メンバーも限られ、総会と称した飲み会を当時の美濃の拙宅で開催して皆で大暴れしたことも今や懐かしい。
少なかったとはいえ、それでも北は札幌から南は屋久島まで極めて個性的な人員が集っていた。当時の日本遡行界の、一騎当千ともいえる猛者共がそれこそぞろぞろと居合わせたものだった。思えば変なオヂサンばかりだったナ。
当時私は手漉き和紙の集いにも参加していたから思うのだが、和紙ですら変わった人たち多かったが、それですら遡行同人の比にはなかった。いや逆に、和紙の集いはまともな真面目人が多かった、か。
中で、私にとってはレジェンドともいえる大阪わらじの会の中庄谷直氏や、わらじの仲間の関根幸次氏に来宅頂けたことは望外の喜びであったし、正直震える思いがした。生きてると辛いことばかりでなく良いこともあるんだなぁ。
その後、岳人誌に台湾渓谷の遡行記録が掲載され、同人の掲示板を設置して海外遡行を志す人達への門戸を開いて以降、徐々にその知名度を上げていくにつれて所属メンバーは増加していった。ここ十年は収拾が付かない程の総会参加者数(所属メンバー数ではない)となった。
そのピークはO、S両氏が発表に現れた、究極の台湾大渓谷イーカンシ―のファーストアッセント&ディッセント周辺だったと記憶する。
ただ、ムンムンと熱気は凄まじかったものの、参加者が増えるのに反比例して真摯な気持ち・開拓者の気魄を持って総会に臨む人達の数も減じていった気がする。それを感じ取った初期メンバー達の足が徐々に総会から遠のいていったのも必然だったか。当初メンバーで参加を続けたのはM氏と成氏と私となって、今年はいよいよナル氏も不参加表明をしたと聞く。
二十年に渡って存続した「海外遡行同人」も、今や機能を十全に果たしてその役目を終えようとしている。
創立が1998年1月1日なので、今年で萬二十年となる。
切ない話が、爽やかな季節を背景に余計哀感を増したものの、重責から解放されようとしているM氏の表情は実に穏やかに映った。
帰途、初めての多度大社に立ち寄った。平日とあって極めて静かな環境下で、これまでの海外遡行同人の無事故を感謝した。
奇跡だぁよ、全く。
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