アキカウリスマキの「浮き雲」ではなく、成瀬巳喜男のソレを。日本屈指の映画とも言われる、ソレを。
『自堕落な男と一人の女の宿命を描く、成瀬巳喜男の最高傑作として知られる愛の名作。』とあった。
薄幸なヒロインに高峰秀子、自堕落男に森雅之。
高峰秀子を観るのは昨年末の「永遠の人」以来のこと。「永遠の人」の高峰氏も気の毒だったが、こちらもまた、、、、。
森雅之は札幌出身で何と!有島武郎の息子とある。
自堕落ぶりがどうにも他人事に思えないところが我ながら観ていてちょっと怖かった。
当時の恋愛の倫理観が、現代に比べて大らかというか度量があるというかユルイというか寛容であるところに時代を感じる。
貞操観念に関しても、今と大きくは変わらないけれど今より当時の方が自由度(許容の幅)は高い気がする。
主人公富岡が農林省の技師であることから、仏印(フランス領インドシナ)から話始まり、屋久島で終わる。山に始まり、山に終わり、富岡女は死んでいく。
俗に屋久島が一月に35日雨が降るなどと言われるのは、この映画の原作で林芙美子の小説「浮雲」の一文に出てくる 「はア、一ヶ月、ほとんど雨ですな。 屋久島は月のうち、三十五日は雨という位 でございますからね。」に拠る。
戦後、官吏が嫌で退職し、材木商やっては失敗し、職を転々とした挙句に伝手で元の鞘に戻るかのような屋久島勤めで立木調査のいで立ちで林尺手にしてラストを飾る。
岡田茉莉子と加東大介が役の中で印象に残った。岡田茉莉子の目ヂカラといったら、主役が霞むほどだった。
この映画の高い評価は、戦争によって人生を中断され空白を持ってしまった戦争体験者の悲劇を、互いにその空白を埋めようと「投げつけ合う」二人の悲劇を描いた点にあるだろうか。空白で空白は埋まらず、また女遍歴を重ねても埋まらないその空白の闇の深さ、か。
富岡はヒデェ野郎だけれどもその深い「空白」の経験ない我々に、責める根拠もない。
ここ最近会い続ける70代のオジサンたちといいこの映画といい、私に何かを示唆するかのような出会いの連続である。あとは漱石の「それから」を読めばいいのか。
昨年末は草津に行ったが、今年は岡田茉莉子の居る伊香保に行ってみたい。
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