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一年前に不幸な事故で亡くなった山の先輩のお宅に伺い、線香を上げてきたのが先々週の事。
そのT氏の奥さんと一時間ほど話して暇乞いをして玄関に出て「あ、macchann90さん。もし良かったら主人の遺品から使えるものを持ってったって。形見分けでもないケド。」と言われ、右足を引き摺って再度階上へ。
煙草の匂い滲みた如何にもTさんらしい二畳ほどの部屋には、所狭しと山道具やら書類やらが詰め込まれていた。
そこで数枚のカラビナ、書架から岩雪や山渓といった雑誌類を有難く頂戴した。
かつては紫岳会という先鋭的な山岳会に属されたT氏の書架には、ソレを示す貴重な本がズラリ並んでいた。今日日ネット情報こそが山の記録のすべてと思っている若い人には判るまい、今では入手が難しい(けれど今や古書店でも値の付かない)古い紙媒体の記録が書庫に収まっていた。
中に、私にとっては目を剥く記録集が、、、、、、あった!
これまでの沢登りを語るに外せない、大阪わらじの会の会報「溯行」が!
これまでに集められるだけは集めていた。主に、海外遡行同人で元大阪わらじの会にて活躍された茂木完治さんから分けて貰って新しどころの12から24までは入手して、特に台湾溯行号の15「特集 台湾の山と谷」は手垢でヌラヌラと光る程に読み込んだものだった。
で、今回その書架から有難く頂戴したのが1967年4月発行の2を始めとして3,4,5,6,9,11+13,15。これは貴重である。
あとは1,7,8,10,11の蒐集を残すのみ。
ここでは簡単に触れておきたい。
2;何と、1967年の段で御嶽・兵衛谷の記録がある。記録が出ないと後続しない今の風潮とは違って「何が出てくるかよう判らんケド、取り敢えず行ってみよか」というノリが嬉しい。中庄谷氏の特徴的な遡行図が如何にも理系らしく、後にこれを読む青島氏に受け継がれている(と思う)。つまりは大西良治氏への活躍にまで繋がっている、のだと思う。後に剱沢単独の、池上昌司氏が登場している。
3;黒部・猫又谷、伯耆大山・甲川(完全遡行ではない)の記録あり。会初の遭難。
4;中ア滑川で初の積雪期溯行記録がある。立合川、白山・仙人谷に50年経った今でも記録少ない大芦倉谷を四日掛けて完全溯行した記録の掲載もある。
5;東ノ川ツキ谷や中ノ滝、北山川の摺古谷登攀の現代的課題を示し、北ア・乳川谷集中を私の生まれる前年に成している。前年の「大」に引き続いて「小」芦倉谷の記録もある。川崎実氏が記録に現れるようになる。
6;川九里沢の右俣(左俣からの転進)、屋久島の鯛ノ川、宮之浦川、そして棒小屋沢、不動川へのトライアル。(尚、川九里沢左俣は6年後の1976年秋に成されている【遡行11】)
9;昭和48年9月で満十年を迎えたという当会の本記録は充実している。6での試登を経ての棒小屋沢ゴルジュ帯完溯、滝ノ内沢一条ノ滝、屋久島・瀬切川、白山・境川流域に南紀・白見山周辺。鍬崎山の大迫戸谷の記録がある! 北ア・笠谷や恵那山・一ノ沢、南紀・五段滝、白山・ボージョ谷、金糞岳・八草川左俣あたりに強いシンパシーを感じる。エンパシー? 茂木氏の入会アリ。
こうして読むと、関東よりも植生の近いこの関西の沢登り集団から台湾溯渓を目指す人間が輩出されたのも頷ける気がする。
ダブリの13,15は、一昨日の歓迎会で会ったyoneyama氏に差し上げた。
今日は「山の日」という。私は怪我で行くに行けないけれど、コロナ渦で行くに行かれない人は机上登山で過ごすのもよいのではないでしょうか。
踏まれ続ける山頂や登山道の下に沁みている歴史は、スマホでは中々掬い上げることは難しい、と思う。登山を文化的行為として捉えないと単なる体力維持やコレクションに堕してしまうことを思う時に、本読みはやはり大事だと思う。
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