二人のアキラ、とは稀代のクライマー松濤明と奥山章のことである。両氏に関わった美枝子という岐阜の女性と、筆者である平塚氏との書簡の遣り取りで関係が語られることで、松濤明、奥山章という魅力的な人物像が浮かび上がり、日本登山史の一面をも伝える構成となっている。
松濤、奥山両氏の直接の接点はないが、北岳バットレス中央稜の初登、冬季初登グループという奇縁がある。あ、共にアキラという名です。
松濤明は、杉本光作著「私の山 谷川岳 (中公文庫)」に登場するように登歩渓流会で戦前戦後と活躍したクライマーで遺稿集「風雪のビヴァーク【未読】」が有名である。加藤文太郎と同じく厳冬期の北鎌尾根に散った。松濤明(と美枝子氏)に一部、材を採ったのが井上靖「氷壁」とのこと。大町山岳博物館に「最期の手帳」があるのを私が見たのは二年前のことになる。思えばこの人も東京農大(山岳部)出の方だ。
なお、会名「登歩渓流会」を「とほけいりゅうかい」ではなく「トボケル会」と読むのだと私に教えてくれたのは稀代の渓流家ao氏なのだが調べてもルビを振った本は出てこない。なおなお、名言「梅干しの種は抜いてきたか」の名言は杉本氏ではなく古参会員の山口清秀氏によるそうだ。
松濤氏と、同行の有元氏の遺体は北鎌尾根西側の千丈沢四ノ沢で発見されたのだが、何の偶然か私はつい三ヶ月前にそこを通過している(千丈沢を遡行したことのある者は極めて少ないと思う)。71年前のあそこの岩陰に手帳があったのだ。
奥山章は第二次RCCの創設者で、その同人に集った当時のトップクライマーである芳野満彦や吉尾弘などが冬季未登の岩壁群を登って一時代を成した。
以前、別の本(原真著『乾いた山』「奥山章氏の思い出」)で読んだのだがこの人には不思議なカリスマ性があったようで、純粋なクライマーというよりかはオーガナイザーとして存在感をみせたようだ。
P.291;癌に罹っての一言、「楽しいこと、無かったーっ」のつぶやきと
P.294;遺書「誰よりも 私の生きがいは、、、、、、、」が心に響いた。
【備忘】
「登るだけなら猿の方がうまい。人間は考えて登らなけりゃいかん(高須茂)」耳が痛い。
大御所・浦松佐美太郎がP.257に登場する。
なお、この本は「ふたりのアキラ」としてヤマケイ文庫から出ている。
著者の平塚晶人さんは沢登りがお好きな東北大学ワンゲル出だそうで、大西良治氏の先輩に当たる方でもあるし(大西氏からはこの先輩の事は知らない、と聞いた)、大西氏の評伝が書かれる際にはこの方の文で読めたら伝わる部分もきっと多いことと思う。
起伏に富んだ人生を送った山田美枝子氏のこれまでが、このような筆力のある方に書き残されたことはまずもって幸運なことに違いない。
【追】何の偶然か、8/20毎日新聞朝刊に集英社文庫の広告に池井戸潤著「アキラとあきら」とあった。「彬と瑛」だそうで。
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