|
![]() |
鈴鹿山脈の果ての柘植駅から奈良駅まで自転車で走ったり、三県境を二つ押さえたり、というのは前座でしかなく、実は今回のメインディッシュは別のところにあった。
それは菰野町のパラミタミュージアムで開催中の「吉田博展」の版画鑑賞にあった。
連休最終日とあって劇混みを予想し、わざわざ道の駅に駐車してわざわざ自転車で訪問する念の入れようだったが、蓋を開けてみればガランガランの展覧会で、大いに肩透かしを喰った。
吉田博、私と似た禿げ方の、明治から昭和にかけて活躍した版画・洋画家である。久留米藩士次男として生まれ、画才を見込まれて養子に入り、京都に上って洋画を田村宗立(古っ!)に学んだという。私の大いに好む、あの鹿子木孟郎(一時、第一子の名前に頂こうかと考えたほどだった)と水彩画論争を起こした三宅克己と同窓だというから日本近代洋画壇でもかなり早い時期の画家と言っていい。その三宅の勧めでこれまた私の好むところの不同舎門下になったとは。先だって書いた、満谷国四郎や鹿子木とも展覧会を開いたという。
版画への転向が49歳だったというので、かなりの遅咲きである。展示映像にあったが、版画という表現はかなり手の掛かる手法のようだ。ただ量産が可能なので、日本風画法も手伝って欧米で認知度が高かったようだ。会場には、ダイアナ妃が吉田作品を執務室に二枚飾ってある写真が飾ってあったが好みが如何にも、、、、であった。
吉田博で思い出すのは、岳人誌で掲載があった黒部の渓流を写した版画である。ベルモン社長の辰野勇氏と黒部川だかを下るために来日したイヴォン・シュイナード氏が土産に持参したのが件の版画で、その趣味の良さに感心した覚えがある。ただ、シュイナード氏は下る川を目の当たりにして「わしゃ、こんなオソガイ川を下るとは聞いていなかったぞな。タツノ、オレは帰るでな。」と、あっけなく帰国の途に就いたげな。
吉田博展は想像を越えてヨカッタ、ということはなく静かな環境下でこのように纏めて観られる機会が得られて幸いだった。
・・・・という穏やかな感想を持って別室の池田満寿夫コーナーに入ってそれまでの気持ちは吹っ飛んだ。
これについてはまた改めて。
三重の喜び?の、週末だった。
三重県、ホント素晴らしい県です。
こんばんは
吉田博は剣岳を描くのに1ケ月だか2ケ月だか露営して山と対峙して描いたと言いますが、そういう現場主義はとてもいいと思います。たまたま鑑賞したことがありましたが、『チューリンガムの黄昏』に惹かれるものがありました。なにか心温まるものがありました。
今晩は。吉田博の現場主義、といいましょうか実際に登って腰を据えてじっくりと対象を捉えるその姿勢が絵画にはよく表れていました(日照の感じだとかに)。『チューリンガムの黄昏』ですか(今回の会場にはありませんでした)、これに牛が入っていたらまるでコローの絵画の様です。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する