太鼓【やドラムス、はたまたピアノといった打楽器(鍵盤楽器)】は、叩けば音が出るだけにその奏法が難しいのだと説明呉れた大学山岳部先輩が居た。居間でネパール楽器を手にした、ヒマラヤ帰りの石橋さんだったと思う。お元気のことと思う。
同様に、山を歩いて登ればそれが山登りという行為になるだけに、奏法ならぬ「どう登るのか」が問われる行為なのだろう。「叩く、音を出す」だけ、「登る」だけでは「登山」にはならない。意志を込めて、山に登る。
その意志が他人の借り物であってはまた振出しに戻ってしまう。百名山登山は自家薬籠中の物になっているか。深田氏から借りモノで終わってはいないか。
借り物だろうが何だろうが、山登りには爽快さも伴えば疲労からの充実も感じる。ために深い考えもなく続けられる行為でもある。
しかしそれに甘んじてはいけない、と思う。
地球上の起伏の、特徴的な地形の高まり(山)に人は何故こうも惹かれるのか。時間と、労力と(化石燃料とお金)を圧力に掛けて登り続ける人間とは一体、何だろう?
上温湯隆が命を懸けたサハラ横断や、ボートやカヌーによる川下りとはまた違った目的を持つ山登り、登れば登る程に謎は深まるばかりの行為である。
先週日曜午後、「渓谷登攀」を久し振りに開いた。だから上記のようなことを思ったというわけでもないのですが。
あれだけの達成をした大西良治氏の今現在の目指すべき地点は?
追記;今日は家内の@9歳の誕生日だった。子供たちがかなり気の利いた晩餐を用意呉れた。おめでたう、そしていつもありがたう。
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