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前半の盛り上がりに比して、後半部のこの盛り下がり方は何なのか。
今西錦司を、類まれなる生態学者・文化人類学者であり登山家・探検家として挙げておきながら、結果として今西進化論はあくまで情緒的な自然科学でしかなかった、大興安嶺横断で氏の探検は終わったと落としている。
犬山にある霊長類研究所設立に氏が大きく関わっていたことが知れたのはよかったものの、岐阜大学長時代の氏の(赤線を追う)山登りは最早”抜け殻”だったとの記述もあった。
今西錦司論を書いてみたいと、御自宅での飲み会で仰った和田城志氏がこの本を読んでいないとは思えないけれど、氏にしても随分と異論もあることだろうと思う。
文中登場する若き本多勝一氏が、堂々たる「今西錦司論(未完)」を原稿として残しており、その批評的な十の列挙は好意を持って読めるのであるが。
残念なことに、なんだかスッキリとしない読後感が残った。
ずいぶん昔(学生時代)、今西進化論が流行って「進化となにか」だったか読みました。義務教育でダーウイン進化説を教えられてきた者としては興味を引く内容でしたが、なにか論理的でもなく”棲み分け論”の根拠もあやふやな展開だったような、やがて、どうでもよい話になりました。
それと今では”進化”という言葉は好きではありません。生物学以外でやたらと”進化”を使われていますが、おかしな話です。この言葉には進化しないのは駄目だ、遅れているというようなニュアンスがどうしても拭い去れないからです。心して使わないと差別意識にすぐに繋がってしまう言葉だと思います。
今西錦司氏の言葉に『進化論というものは、科学の問題であるとともにまた、思想の問題である。』というものがあるそうです。とはいえ、生物の進化に明確な科学的回答はなく、あるのは”進化した”事実だけの様ですね。進化のない男っ、と家内にたまに言われます。いや、進歩でしたか。
御意。わたしもそう思います。
かつての奥美濃の登山家達にとって、今西先生の薫陶を受けなかった者はだれもいません。川浦渓谷内バミ洞で、一杯やりながら焚き火を囲んで「棲み分け論(男と女の)」の講義を受けた者ばかりだったからです。だから彼らは<評伝>や<伝記>の類いは書けませんでした。思い出しか無かったからです。
「評伝 今西錦司」の著者はもちろん今西先生と一緒に山を歩いたことがありません。記録や資料のつぎはぎだけでこの本をまとめました。登山家今西錦司の魅力は大学者でありながら、人間臭さを持っていたことに尽きると思います。
かつての岐阜の登山家たちがこの著書を読んだら、全員鼻でせせら笑ったかも知れませんネ。
以上。
そうです、前半に滲んでいた「人間臭」が後半に至って希薄になったのが読後感に作用したようです。内バミ洞の件はどの本に掲載された話でしょうか? 枕元に「山岳省察」と「自然と山と」とを置いて、寝る前にちょこちょこと読んでおります。
川浦渓谷内啣洞の話は今西錦司の著書ではなく、同行者の記録にあったものです。高木泰夫氏のものだったと思いますが、川浦渓谷から美濃平家へ登ったときの記録です。
最近は行っていないのでわかりませんが、10年ぐらい前までの大垣市立図書館には、奥美濃に関する資料記録がかなり豊富に揃っていました。内啣洞の件もたぶんそこで読んだのだと思います。
以上。
上記記述の概略が高木泰夫氏の「奥美濃」に出ていたのを確認しました。
ここ近年は「平家岳」ではなく「美濃平家岳」に価値が置かれているんでしょうか。内啣洞を溯った際に平家岳に立ち損ねて悔やんだ記憶があります。
こんばんは。
「奥美濃」は権威ある出版社から出された本だから、当たり障りの無い描写に留まっています。わたしが読んだのは大垣山岳会の「わっぱ」だったか「岳友」のどちらかだったと思います。「今西先生の思い出」というやうな題名ではなかったでしょうか。
地方の小冊子ですが、「なま」の思いが綴られていたやうに思います。30年も昔のことですから、朧気にしか記憶していませんが、岐阜大学の「今西文庫」に行けば探せるのではないでしょうか。
一般的には1441.5mが平家岳と呼ばれているやうですが、美濃の人間である私は1450mのピークを「美濃平家」と呼びたい。区別の意味で前者を「越前平家」、後者を「美濃平家」としています。
ただ、美濃平家には三角点も山名表示板も、登山道もありません。藪の中に「むなしい」ケモノの寝床のやうな空間があるだけです。でもそこが奥美濃四番目の高みであることは確かです。
「美濃平家」は今西錦司が、「そう呼ぼう」と提案してから呼ばれるやうになりました。
以上。
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