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開催中の「福島諭=桑原ゆうアーティストトーク」に参加してみたが、これまで他の作家にもあった音楽を美術館に"載せる"その意味を考えてしまった。これよりも同時開催の「令和4年度岐阜県青少年美術展 青年部 書道」の方に余程"持って"いかれた。中に北大山岳部大先輩に当たる伊藤秀五郎の詩作が書として飾られていた。何故? それは「みやまうすゆきそう」で、末尾が割愛されているのは意味あろうことか(「そのときだった 彼女が寂寥の意味を覚ったのは」)? 果たして親の薫陶だろうか? 何故に?
昨夏、庭に吊ってあったセッコクが枯れたことも気付きだったか。その夏の盆休み山行で停滞前線による雨に振り込められたのも一環だった、と思う。気候変動の。
ここ近年、たかだか小さな低気圧が通過する度毎にニュースでは大雨に警戒警戒とカシマシイ。以前はこんなことが一々ニュースにはならなかった。
これまでの季節の移ろいが通用しなくなってきている、と思う。出梅後の、ここ最近の天候不順を気象予報士は何と心得るや?
自然は我々に、手心を加えてくれなどと言っていない。ただ、もうこれ以上余計なことをしでかさないで欲しい、とは言っている気がする(気のせいか?)。気温上昇を1.5℃に抑える? 健常者が我慢を心掛けなくてはならないことを、洪水に遭って知るのでは遅い。あって当たり前の今が損なわれて初めて戦争被害者の痛みを知るのでは遅い。先の選挙で誰一人として明言していなかったが、今以上の経済成長や快適生活を望むのではなく、モノではない真の心の豊かさを慎ましく求める生活を目指すのが我々世代の努めではないのか。コロナ禍で何も学んでいなかったと後々、子や孫たちに揶揄されないように。車走らせてる間くらいはクーラー、切ろうぜ。少なくとも一人乗りで一人部屋でクーラー利かすの、止めようぜ。
イギリスがEUからの離脱を決めた際の浜矩子氏のコメントが振るっていた。「自分さえよければいいというのは国際社会に於いて通用しない」 熱風を外に出して「自分さえ涼しければいいというのは現代社会に於いて通用しない」健常者は。
何をしなくてはいけないのか以前に、何をしないよう心掛けるのかを考えるのが最近の私の”脳内旅行”だ。ポイントは付かないけれど。
林業も然りで、この草を刈ることの意味や、この一本の木を伐ること、敢えて伐らずに残すことよって滲む影響のことを日々考える。
こんなして今日、岐阜が午後から暑かったのは、考えをこねくった私のせいである。
「令和4年度岐阜県青少年美術展」は明日まで。美術館近くの酒屋に薩摩焼酎「アサヒ」があった! 明日も環境負荷を抑えるべく、コレを呑んで休日とする。
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