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若い年で死んだ友人の追悼文、年配者同士の追悼文と様々ですが、追悼文を読むのは好きです。死をきっかけに生とはなにかを再考できるからかもしれません。
しかし、近頃になって、鈍い私でもふと妙な想像にも及ぶようになりました。「もし彼がこの山行で墜落死したら、私は彼の何を書くだろう?」とか、「私が死んだ折、どんな人が私の人生の断片について何を書いてくれることになるのだろうか?」とか。「もし超長生きして、ヨボヨボの私しか知らない人ばかりになったら、ヨボヨボ印象記の追悼にしかならんわな」とか。
思えば普通の市民であるのに、追悼文を書いてくれる人がいる山岳部は特殊だ。凡人でも、その最も美しく充実した時を見知っているからだろうか。奇跡のゲマインシャフトである。
自分の追悼を読んでみたい気もするけれど、それだけはかないません。本人だけが読めない。そこがまたおもしろい。たとえ悪態を書かれても、勘違いされていても、死んでいるから気にしない、どうでも良い。安心100%です。
あ、私が死んだ際には宜しくお願いします。楽しみにしています。
とか需要ありそうな?!
つきあいが長くなくても鮮烈な記憶があれば、頼まれなくても書きますが、書き手が本人でなければ、追悼ではないだろうなと思いますよ。新聞のお悔やみ欄ですね。
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