尾根は登りで山頂に向かって集約していくから、高みを目指す限り絶対に間違えない。尾根は下りで手の指のように分岐していくからその度に間違える可能性がある。山頂から下り始めるときが一番間違える。ここで間違えると反対の側へ下ることになる。そんなバカなと思っても、地図と磁石で確かめなければ、どんな経験者でも間違える。
地図見て歩いて、なんか違うな〜と思って磁石見て直すのでもよいが、予めここは絶対判断に困る地形だぞという箇所は前もって地図で見ておくくらいがちょうどよい。丸見えの景色ならまだわかるけど、樹林帯や、霧に巻かれた雪山では本当にわからない。道標はまず、当てにならない。描いてあっても意味不明なのもあるし。地形図をポケットに仕舞う暇はない。下りでは左手にいつも持っている。
谷に降りれば、尾根とは逆でどの谷も合流して一本になるから迷わない。でもそう簡単じゃない。突然滝が現れて、落ちて死ぬ。下流部では渡渉できない水量にもなり溺れて死ぬ。
この週末、三河信濃国境稜線32キロを一人で辿った。何十もの小さな無名ピークを越え、その度に下りになるので、嫌というほど思い知った。下りは間違えやすい。
山を歩いて集中していると、ひらめくときがある。下りが危ないのは人生も同じだ。勤め人の仕事でも、打ち込んでいる何かでも、40代くらいにある種のピークを迎え、後は下り坂だ。
その時はわからなくても後からわかる。あれ、俺下り道歩いているのか。登りは高みを目指して何も考えず楽だったなあ。でも下山は、選択肢だらけだ。どっちの尾根を下るんだっけ。いやこっちの尾根のつもりなんだが。樹林でよく見えないぞ。
こういうときに地図と磁石の技術を身に着けていないと打つ手がない。GPSは便利で絶対間違えないけどこれに依存してしまって、普段から頭で考えないと、なんのために山に登っているのかと私はつまらなくなる。
GPSのようなものが人生にもあるだろうか。あるとしたら、それに従いたいだろうか。
地形図と磁石で考えて歩く技術を、下山のときに持たないことは危険だと思う。これは人生も同じだと思う。
通りすがりに読ませて頂きました。
成程、成程、すぐ心の中にストンと入りました。
私も山登りの最中によく人生と比較して考えることがありますが、yoneyamaさんの的確なご指摘には感服しました。
といっても私は自営業なので、上りも下りも単純な1本道しかなく迷いようがありません、夕闇迫る今もひたすら歩き続けています。
地図上ではそろそろ大きな川の渡渉点が見えてくる筈なのですが・・・そこで夜ですかね。
勤め人がいつか確実に終わるのに比べ自営業の果てしなさというか、羨ましい面もあり、これからは小さく自営に憧れています。
夕闇迫る下山・・、いろいろ憶えがありますね。やばい渡渉なら、夜が明けてからでもいいですね。
確かに登りは山頂へ尾根が細くなっていって迷いにくいけど、下りは枝に広がって迷いやすいですね。私は鈴鹿北部の雪山が好きですが、多くの山頂がテーブル上になってるため、ホワイトアウトやガスで遭難の危険が高いので、目印にしやすい地形を見つけておいてそこにテントを張るとかそこから下るとかにしています。少し立ち止まって停滞出来れば別になんのことなかったりもしますけど。
人生も確かに下りですね。下りの人生いかに快適にするか、身体を長持ちさせるかです。早めに老眼鏡を使いだしたら疲れがなくて快適です。
台地から尾根に入るところは、戻るなら必ず赤旗を打ちますね。そういう下降ルートを視界ゼロで見つけるのはすごく難しいと、計画時点で要チェックですね。泊まるのが一番です。時間に追われると間違える、立ち止まれば霧が晴れる。
目のメンテもあるんですね。
私も後から気が付きました。
あぁ、あの時が自分の人生の頂点だったんだなぁと。男はもがき苦しみながら目標に向かって前進している時が一番幸せだったんだなぁと。
それからというもの、人生の下り坂の分岐点ではルートミスばかりです。
思う事は後悔ばかり。あの時、右ではなく左へ行けば人生変わっていたかも知れない。
でもそれは人生をやり直してみないと答えは誰にも分からない。
考えるのは時間の無駄と自分に言い聞かせ、何とか踏ん張り遭難せずに持ちこたえています。
一人で山を歩いているといろいろ考えてしまいますね。そもそも人生の下降路は行き先自由なんですよね。滑落と溺死さえしなければ、見知らぬ尾根末端には予期しなかった幸せがあるかもしれないですね。
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