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登山愛好家として何度も北ア登山の途上で自動車道路158号線は通ったが、もちろん今の道は上高地観光開発時代の釜トンネル開通、現在の新安房峠開通の大正時代以降のもの。以前は、梓川の渓谷は河原も狭いし渡渉も困難だから、右岸側に延々と中腹巻きルートがあったのだ。50年、知らなかった!ネパールのトレッキング(カリガンダキやマルシャンディ)でこんなところを何週間もかけて歩いたことがある。地形の弱点を縫って道があり、途中の小さな平地には数件の集落が昔はあった。全くネパールと同じだ。
稲核(いねこき)は、ダムで水没して中腹に移ったのではなく、元からあそこだった。稲核のような集落がいくつも以前はあったのだ。その古道は今も薬研堀(やげんぼり)と呼ばれる、表紙写真のように、両側土に囲われて溝が掘れた道として残っている。ところどころガレや崖で途切れ、笹薮に覆われた古道を辿ってすべて解明したのがこの本。入山(にゅうやま)、祠(ほこら)峠、檜(ひのき)峠などに往年は人が住み、茶屋や旅籠もあったのだろう。
藪の中に薬研堀の純然たる道を発見する喜びが記されていたのはP91、沢渡から安房山南のコルへの登路を藪の中に見出すあたり。1790年、幕府令で野麦峠に1本化されて以来200年公道としては使われなかったが、明治までは利用はあった模様。武田信玄の飛騨攻めの際に本人はもちろん幹部家来の飯富(おぶ)、馬場、甘利などが(旧)安房峠で交戦した記録もある。信玄軍団って鎧甲冑で藪漕ぎ乱闘できるって凄すぎるヨ。
道は岐阜側では更に平湯から双六谷二股まで蒲田川右岸をくだり双六谷から山吹峠を越えて和佐府、唐尾峠から有峰湖南岸へ。ダム湖底に沈んだ有峰から瀬戸谷山の北をカスって祐延(すけのべ)ダム南岸、東笠山、熊尾山、高杉山、水須山を縫って才覚地、常願寺川左岸に出る。よくぞ解明したものだ。
1929年安曇村大野川生まれ、白骨温泉の旅館経営の著者の2009年の書。すでに故人とのこと。ウチの母(現存)と同年生まれだ。この本は松本市内の古書店四件で訊いても見当たらず。Webにもない。松本市立図書館で借りました。
ヤマレコの計画書機能で、本にあったルートを描いて置きました。地形図見て、皆の衆、唸ってくだされ。
新島々~平湯
https://www.yamareco.com/modules/yr_plan/detail-4783036.html
平湯~才覚地
https://www.yamareco.com/modules/yr_plan/detail-4827042.html
いま、〇〇トレールという長距離徒歩コースがあちこちにあるようですが、このルートはほとんどバリ山行です。地下足袋、ワークマン装束でお願いします。
何年か前に飛騨高根村から野麦峠に登った時、登山口に「鎌倉街道」と「江戸街道」のふたつの立て札がありました。鎌倉時代は「鎌倉街道」、江戸時代は「江戸街道」と呼んでいたのだろうと解釈しましたが、他にも木曽街道へと繋がるルートがあったのですね。
野麦峠から奈川村、奈川渡から梓川に合流するルートが、江戸時代から官道になったとのことです。それ以前もそれ以降も道自体はあれこれ弱点をついて歩かれていて、この著者によれば鎌倉街道は、安房山の南のコルを通るラインでした。全く、山は自由で、心が踊りますね。
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