先の震災で津波を防いでくれた海岸の松林は、実は飛砂の被害を防ぐため、江戸時代数百年をかけて築かれた防砂林でした。1933年の、砂に埋まる家を写した写真は、阿部公房の砂の女は誇張じゃなかったんだと思いました。
その凄い砂は、過剰な森林伐採の山崩れで川から流された土砂が海岸の砂丘を作ったためであり、1900年あたりの日本の森林が、最も劣化した時期であったという。東海道五十三次の遠景の山はたしかに禿げ山ばかり。荒れ地に育つ松がまばらに生えているばかり。
「かつての里山は持続可能で豊かな森が広がっていた、人々はその恵みを受けて暮らしていた、とはおとぎ話のようなもので、少なくとも江戸時代中期から私達の祖先は、鬱蒼とした森林をほとんど目にすることなく暮らしていたのである。」というくだりには大ショック!奈良の都ができてから、日本の森が製塩、製鉄、窯業で長く大規模に損なわれてきた過程がまとまっています。列島の照葉樹(カシなど)がことごとく切られ、代わりに荒れ地にも早く育って材も良いアカマツが増えて行き、東日本でも育ちが早く収奪可能なコナラやクヌギに変わって行ったとのこと。
鬱蒼とした森林に、日本人が触れる事ができるようになったのは、石油エネルギーの輸入期以降なのだそうです。思い込んでいた常識に蹴りをいれてくれるおもしろい本でした。
ネットで検索、引用ばかりするんでなくて、写真や資料や古文書や浮世絵から場所を特定して緻密に論考する、そうやって書いた本は本当におもしろいです。
森林飽和―国土の変貌を考える (NHKブックス No.1193) [単行本(ソフトカバー)]
太田 猛彦 (著)
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/ListAll?cnt=1&mode=speed&spKeyword=%90%58%97%D1%96%4F%98%61&pageNumber=0&totalCnt=1&dispCnt=20&button=btnSpeed
yoneyama さん、今晩は。
六甲山でも明治の初め頃は禿山でした。日本全国同じだったのでしょうね。殆どが燃料だと思います。その後水害などで、六甲山もダムを造り、保安林を造って来たようですね。
こんばんは。
興味深いお話ですね。木曽の御嶽山周辺は戦国時代の良質な築城用木材として、木曽川をつかって多量に愛知方面に売られていき、豊臣秀吉のころ?には厳しい規制で地元民は枯れ枝も拾えないほどだったとか。その結果、江戸時代には禿山になったと聞いたことがあります。
yoneyamaさん、こんにちは!
私もこの本を読んでショックを受けた一人です。
ふだんハイキングに行っている奥多摩あたりがちょっと前までハゲ山だったとは驚きでした。
さらに、現代の森林面積が過去400年間でもっとも大きくなっているとか、森林が吸収する二酸化炭素と、森林が育む有機物から生まれる二酸化炭素の量は同じとか、治山治水が進みすぎて軽微な土砂崩れが減り全国の海岸線が後退しているとか、今まで常識だと思っていたことを考え直さなければいけないことばかりでした。
そういえば、白砂青松でイメージされる日本のマツ林が人工林なのと同じように、地中海沿岸のオリーブの木も、実は森林の乱伐を象徴する植物で、荒廃した土壌でも育つ”貧困の樹木”の代表なんだそうです。これは『森と文明の物語(安田喜憲・著)』という本に書かれていたお話です。
メスナさん
砂防ダムメッタ打ちの戦法は、禿げ山土砂流出時代の心的外傷かもしれませんね。もう森林飽和となって久しいのに。
オデン蕎麦さん
柴一本拾えないという話、以前は大袈裟なといましたが、確かに日々のメシを炊くにも必要なものです。そりゃ、真剣な取り合いにもなりますよね。すべてのエネルギーを裏山から得ていたのですから。都市の壮麗な寺社建築、式年遷宮に必要な巨木の供給先がどんどん険しい山、日本の辺縁へと伸びて行く様が書いてありました。
ホズさん
山を崩して生きて来た人の業以上に、悲惨だった過去の風景をすっかり忘れて180度違った誤解の幻想をほとんどの人が共有している事にショックでした。こういう体験があるから読書はやめられませんね。
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