今回登った平林集落の氷室神社ともう一つの古い穂見神社に関することや、今は地元の人もみな忘れてしまっている(伝わっていない)数十年前の山のことが郷土愛たっぷりに書いてあってたいへん面白い。
櫛形山山頂からは白根三山も甲府盆地も富士山も望む展望があったことや(今は樹林延び過ぎで全然見えません)、山麓の温泉は今よりたくさんあったこと、富士川町(合併前の名は増富町、その前は青柳)にこのころ山梨交通の路面電車(通称ボロ電1962年廃線)が、甲府駅からずっと延びていた地図があり、山稜には牧場に200頭近い牛を放牧、スキー場まであったと(ただしリフト無しの時代)。ほこら小屋の由来もありました。
こういう地域の古い郷土出版物を図書館や古書店や公民館などで探すのが好きです。この数十年の山の変遷も面白いし、かなり昔の事も詳しく調べて書いてあるのに、絶版になったらそれっきり。それを継ぐ本が後の世代で出されるわけでもなく、忘れられていきます。山好きで登っている人も、大して研究心が無ければ調べる人も多くありません。今どきの本は綺麗な写真は載っていますがガイド本ばかりでまったくつまらないです。
櫛形山 保坂義照著 櫛形山観光協会 1954
櫛形山ですか、それにしても古い本ですね流石地元の図書館です、
今の南アルプス市(昔の甲西町)に親類が居たのでそこから眺める櫛形山は立派な形をしていましたし、まだ車が通れた時代には夜叉神峠から野呂川林道→丸山林道を通ったことが何回かあります、
増富町、その前は青柳は確かにありましたね、この街道は美しい名前の町が沢山ありますね、
ないでんさん甲府盆地にご縁がありましたか。櫛形山、地味だけど圧倒的な存在感ですね。松本から見る鉢盛山にイメージかぶります。展望は無いけど、森の風情が良い山です。美しい名前の町、全部合併してヘンな名前になって残念です。
山梨交通電車線を調べた、山梨大学のぺーじがありました
http://page.freett.com/YURFC/kenkyu/yamako/
あらげんさん
ナシ大鉄研、調べ上げましたね。知り合いのオヤジに聞いても1962年廃線だと、結構高齢者ばかりです。世の中は進化しているのか、劣化しているのか、時々わからなくなります。政界はあきらかに退化しているように見え〼。情報化社会ってそれほど進んでいるのかな。
yoneyamaさん、こんばんは。
甲府から出ていた電車のこと知ってますよ。
山梨出身ではないのですが、親類がいたので
幼少の頃、親に連れられて乗った記憶が・・・
たぶん、山梨県人でも、あの電車を
リアルタイムで知ってるのは50代後半以上?
60代以上の皆さんではないかと思います。
東京で言えば、都電みたいなイメージでした。
確か今諏訪の先、櫛形町?付近まで延びてたような。
5号線は今でも、途中2本平行して走っている部分があると思いますが、
南側の道路は電車道の跡地を利用しているからです。
今は再開発されて、どうなってるかわかりませんが
開国橋にも道路が2本あり
南側は電車道を道路にしたものだったと思います。
櫛形山の裸山は30年前に行ったときは
冨士山の頭の部分は見えていたんですが、もうダメですか。
南アも木が少し邪魔でしたけど全部見えていたんですけどね。
山ヘロさん
二本平行は今も廃棄線通りとバス通りと言われています。が、記憶があるのはやはり50台後半組以上です。
ボロ電の終点は甲斐青柳で、いまの富士川町。なんでここまで?と始め意味が分からなかったのですが、1903年の国鉄中央線開通以前は山梨の物流の中心はこの釜無川と笛吹川の合流する富士川二股の港だったせいと知りました。その港への馬車鉄道が、起源だったのです。
僕の故郷の松本でも浅間温泉行きの路面電車が1964年廃止で、記憶あるのは世代イッコ上です。自動車に押され廃止、というのが当時の風潮のようです。
櫛形山の展望が利かないのはいまの山頂の話で、裸山は30年前のその状態とほぼ同じです。1954年は山頂でも両側丸見えだったという話に驚きました。
展望の無い山頂では、以前より樹林が伸びてしまったためというところが結構多いのですが、昔ならバンバン切っていただろうに、風潮が変わったせいもあるようです。交通の流れも人の価値観も、変わってしまうと以前の行いの意味がすぐにはわからなくなってしまう。おもしろいです。
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