![]() |
8月4日には、黒部五郎小屋の天場で豪雨・水没(水深50センチ)で衰弱した登山者が小屋に収容。その夜は双六沼や三俣蓮華岳の天場でも、ポールを折られて倒壊するテントが出ました。
私たち家族4人はその8月4日に新穂高温泉駐車場で、雨の一夜を明かし、翌5日、水晶岳をめざす登山を開始しました。
http://trace.kinokoyama.net/nalps/suisyo.97.8.htm
ワサビ平への林道は、雨のなかを登山者が次々と下りてきます。途中に豪雨の土石流跡が2箇所。下りてくる登山者によると、鏡平の手前の秩父沢が増水し、斜面全体が水に浸かっているところもあり、減水を待って下山してきたとのことでした。
雨が止まないため、この日はワサビ平小屋で雨宿りとしました。
翌6日、鏡平小屋への登り。下山してくる登山者から、双六沼のサイトで4日に20張りのテントから登山者が小屋へ収容されたことを聞きました。
彼らも、購入まもないゴアテックスのドームテント(フライ付、I社製)で幕営していて、「3人でフレームを押さえて耐えていたが、ついにボキッと音がしてフレームを折られてしまった」と話していました。
今年も水晶岳は、またもや行けないのかもしれない。弱気がちょっと頭をもたげました。
95年は黒部源流周回コースで水晶岳にも登るつもりでしたが、3日目が雨模様で三俣山荘から雲ノ平へ進みました。
96年は抜群の好天に恵まれましたが、カミさんが下山後に手術するような故障が出たため、水晶岳へのピストンは鷲羽岳までで打ち切り、西鎌尾根から槍ヶ岳へと転進しました。
今年は、これまでと比べても、天気は一番の悪条件になってしまいました。でも、4人の体調はまずまずで、息子たちの体力がまたぐんと伸びてきたのが好条件。
水晶岳に焦点を絞り、今回は双六沼のベースから、ラッシュ・アタックで確実に登るプランでやってきました。
その日は、双六沼まで到達して、ベース・テントを設置。
7日、夜の強い雨が上がったなか、いよいよ水晶岳のピストンに出発しました。
三俣山荘まですすむあいだに、上空には青空が広がり始め、絶好の登頂日和に。それでも水晶岳は、まだ遠い。「ほんとうに行って帰って来れるの?」とカミさんや息子たちが言うけれど、とにかく歩き通すしかない。
黒部川源流沿いを登りつめ、午後1時10分、私たちは2986メートルの水晶岳の頂に立ちました。3度目の挑戦で、感激の頂でした。
帰り道は、みんな、体はもうぼろぼろ。
午後6時10分、双六沼の幕営場にたどりつきました。往復の行動時間は11時間15分に達していました。
カミさんが、「今日のメニューはモツ鍋だよ。ねぎとかナスもいれて、あったかくして食べようね。御飯は食べれなくても、これは力が出るよ」と、みんなを励まします。ニンニクのパンチの効いたいい匂い。ぐつぐつ煮始めると、岳彦と峻二もコッフェルをのぞきこみます。おわんにたっぷり1杯ずつ食べて、4人は元気を取り戻しました。
ところが、ほんとうの苦難と試練は、そのあとに来たのです。
夜の7時45分ごろでした。突然、雨が強くなり始め、双六谷からテントの壁が大きくたわむような強い風が吹き始めました。周囲のテントではフライのすそをあおられて、「バッバッバッバッ」とかなり大きな音をたてるものも出てきました。「うちのテントは風除けの石垣を積んだから大丈夫だよ」といってはみたが、風ではげしくたわむテントの壁には驚いてしまう。
猛烈な風が大粒の雨をともなって断続的に襲いかかってきます。すぐ後ろに設営された大型テントでさえフライがはぎ取られんばかりに風にあおられていることが、激しい音からわかりました。
あちこちのテントから大きな声が聞こえ始め、人が出てきて小屋へ向かったり、テントを補強している様子が伝わってきます。すでに目を覚ましていた岳彦と峻二にも手伝ってもらい、風の来襲にそなえました。
ドームテントはもともと風に押されて柔軟に変形することで倒壊を避ける構造になっています。が、継ぎ合わせたフレームは極端な力が加わると外れたり、曲がったりするし、張り綱と布地の結合部だって強い張力にどこまで耐えられるかわかりません。
風は10〜15秒ばかりの間をおいて20〜40秒間、吹き荒れます。「それきた」と4人の8本の手でフレームと張り綱の位置を中心に風の圧力に対抗してテントの変形をほどほどに抑えようとするのですが、両手で支えようとすると体がズズッと後ろにずり下がるほど、風の力は猛烈に強い。
いったん風が弱まって、うとうとしたころ、カミさんが、なにか悲痛な声を上げたのが聞こえました。この猛烈な風の唸り声はなんだ。前線が北へ抜けたはずなのに、どうして、また吹き始めたんだ。他のテントからも叫び声がしています。「岳彦、峻二、起きて支えるんだ」と声をかけると、2人も飛び起きて、テントを守る態勢に入りました。
今度の風は格段に強い。雨もさらに粒が大きくなったようです。テントをささえていると、ヘッドランプの灯にすかされて、テントの布地から何か煙のような細かいものが舞い上がり、漂ってくるのが見えます。それはみな、風と雨の圧力で布地の目をくぐりぬけてきた水の粒子でした。
時刻は11時をまわっていました。風雨の間隔はどんどん狭まり、空白の時間は10秒もないくらい。間断なくテントを襲う状態になっていました。あちこちのテントからまた悲鳴に近い声が聞こえています。
峻二が、「お父さん、もうだめだね」と健気にしっかりした声でいいました。「このテント、もうもたないね」。実際、こんな状態が続いたのでは、みんな眠ることはできないし、体がまいって明日の行動はできなくなってしまう。
「よし、それじゃ、脱出にかかるか」。
小休止の前に4人で相談していた「もしも」のことを、実行に移すことにしました。
全員が雨具をつけ、カミさんはシュラフをすべて1つののザックに収納しました。時刻は夜12時近く。まず私がテントを出て、100メートルほど離れた双六小屋まで行く。ところが、こんな時間、玄関から戸を開けて入るが、呼んでも人は出てこない。とりあえず玄関にならば一時避難は可能と考え、テントにもどりました。
全員が靴をはき、カミさんと峻二がシュラフをつめたザックをもって先に小屋へ。私と岳彦は、小屋にもっていく食糧や装備、マットレスを別のザックにつめ、テントはフレームの一端を外して、地べたに伏せるように倒し、その上に石をのせました。
これでOK。
すぐ隣のテントは、フライシートを完全に剥がされて、インナーテントが風雨にむき出しにされて激しくあおられています。どこのテントでも灯がともり、フレームやポールを支えているのか、ときおり声が飛び交っていました。
双六小屋では玄関の靴置き場の床のスペースに子どもたちを寝かせました。後から退避してきた女性のパーティにも、玄関で同じように休むことを伝えました。
この夜はどのテントも同じような格闘をしていたようで、翌朝、小屋で会話した若い夫婦は、テントを一晩中支えていて結局一睡もできず、一日小屋に停滞してから下山すると話していました。
8日。日付が変わってからも、風はさらに強くなりました。私たちは、朝4時に朝食の支度に起きた従業員の人に事情を話して、談話室に移動させてもらい、そこでやっと2時間ほどの仮眠をとることができました。
その朝の双六小屋の談話室と玄関は、避難してきた人や、出発できない小屋の宿泊者を中心に、風雨を避けて小屋に待機する人たちで一杯になりました。
私たちは、天候を見きわめて可能なら下山し、増水の難所の秩父沢を越えることにしました。午前10時45分、小屋を出発。幸い、雨は落ち着き、新穂高温泉へ下山できました。
山小屋が、登山者の安全や活動にとって、大事な役割を果たしていることを実感できた山行でした。
そして、家族4人、力を合わせたこのときの体験は、我が家の忘れられない、そして、かけがえのない絆となりました。
(写真は、黒部川源頭の岩苔乗越からの、右が水晶岳。左奥が薬師岳)
こんばんは、tanigawaさん。
やっぱりご家族での山行のすごいご経験と絆に感動してしまいます。
junyamash さんへ
家族でテントで行くというのは、やはり大きな制約をかかえています。このときは、運もあり、小屋の方や登山者同士の情報交換など、他の方の援助も受けながらやりとおすことができたように思います。
2人の息子たちも、水晶岳の姿を初めて見(前回に紹介しました)、この山への挑戦を続けていくなかで、ちょっとしっかりした少年らしくなってきたかなと、思っています。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する