谷地平小屋は、その湿原の南側に建つ山小屋です。山登りを始めた1970年代、この小屋と谷地平へは幾度か通いました。
谷地平小屋は、6月になるとイワナ釣りの人々が入る小屋でした。知らずに泊まりに行った私は、タバコと酒の宴会に閉口し、小屋の外にテントを張って泊まりました。
この小屋は戦前の時期からイワナ釣りの人たちが根城にしてきた小屋だと知ったのは、田部正太郎の記録を読んでからでした。
田部は、1930年1月、加藤文太郎との剣沢小屋での出会いのあと、小屋を襲った雪崩で案内人をふくめパーティー6人全員が死亡した事故で亡くなった登山者です。
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田部の記録
……鎌沼を回って右へ切って下ると、地蔵仏がある。それから美しい針葉樹林の間を抜けて出れば谷地平に下れるのである。
……遠くに奏でる渓流のせせらぎも次第に近くなったように思われる。俄然森が開けて、中吾妻山が見える。…我々は美しい流れを渡って、細かい綺麗な小石の並んでいる川原に立っていた。流れが急ぐともなく、秋の日光を十分に浴してきらめいている。「小屋が見える」と善七君の声。新しい生木の香いの去らない小屋が、河原の上に建てられて、我々を迎えている。
…ともかく、中の囲炉裏で湯を沸かす。昼食の用意が整う。この小屋は一間半、三間の板敷と一間三間の土間に分れて、その他便所一間と焚き火と入口が半間と一間半ついている。すぐ傍らを川が流れている。
…屋根は板でどうにかせねば冬は使えぬ。…この小屋が何時かはスキーヒュッテとして完成されて、青木山の小屋の様なユーモラスになる時も遠くあるまいと思う。
……土湯村から来たという岩魚取りがヤスやビクなどを持ってやって来て、小屋に入って来る。この川には岩魚が沢山いるそうで、一夜ついて一貫目は大丈夫と力んでいた。
以上は、「吾妻山の高原 谷地平」から
(「高原 紀行と案内」所収、深田久弥編、青木書店、1938年7月刊)
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それにしても、夜の沢でヤスで岩魚を一貫目(4キロ)も突くとは、すごい話です。
田部は、いまから80年も前の時期に、イワナ取りの人たちのうるさいのに閉口したと2度の体験から書いています。とくに初夏に宿泊した2度目はたいへんな目に遭っていました。
私も、1972年6月に、谷地平小屋で煙草と酒攻めの同じ体験をし、持参したテントに逃げ出したことがあります。
田部の記述を読むと、戦前の谷地平は、イワナの魚影の濃さが相当なものだったようで、生業あるいは食糧用として、多数の地元の人々が吾妻山の周囲から入山・生活していたことが伺われます。釣り人の前線基地となる掛け小屋もいくつか点在していたようです。
登山者が入るずっと以前に、谷地平はイワナを求める人々によって開かれていたことになります。
谷地平小屋の歴史は、昔の記録やガイドブックなど諸資料から、次の歴史をたどることができます。
1)1920年代後半に建てられた初代の谷地平小屋。(田部氏の記録による)
2)木造りで、痛みがひどい状態が写真に残されている、谷地平小屋。(「みちのくの山」1964年刊掲載、写真1枚目)
推測では1940〜50年代に建設か。
3)福島県が1966年に建設したカマボコ型の無人小屋、収容力は15名程度。(「アルパインガイド 東北の山」1974年版に記述)。
この3代目の谷地平小屋が、私が高校時代とそれ以後に何度も訪問した小屋です。
屋根は、カマボコ型ではなく、左右で斜度が異なる変則三角形だった記憶があります。
8人がやっと。
(内部のスケッチは写真2枚目、内部の様子は3枚目)
4)現在の、木造の谷地平小屋。20人収容。
以上ですが、谷地平小屋についての私の関連サイトは、下記にあります。
思い出の山小屋 谷地平小屋
http://trace.kinokoyama.net/yamagoya/yatidaira-koya.htm
吾妻山・大倉深沢遡行 1972年6月
http://trace.kinokoyama.net/touhoku/adumayama-ookurahukazawa.72.6.htm
吾妻連峰縦走―土湯から西大巓 1975年9月
http://trace.kinokoyama.net/touhoku/tutiyu-nisidaiten1975.htm
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