日曜日は仲間3人で茨城県の町へH君のお別れ会に行ってきました。
彼は札幌の学生寮の2年後輩。寮の周囲が森に包まれていたあのころ、カメラを手にコブシやエンレイソウ、山ではクロユリを写真に収め、当時花にはまったく縁がなかった私にプリントを回してくれたりしました。
卒業後は、茨城県で理科の教員になり、山岳部の顧問として山を歩きました。まとまった休みをとると南米、アルプス、ニュージランドと風来坊のように動き回って、いつも意外な景観をバックにしたた絵葉書を送ってよこしました。
そのH君から「助けてください!」と寮出身者のメーリングリストに連絡が入ったのは、6年前の9月でした。授業中、黒板に字を書いていて、肘に違和感が出て書けなくなったのでした。
精密検査を重ね、ALS(筋委縮性側索硬化症)と診断。
その年の10月にみんなで病室に訪ねたころは、手、足、顔がみんな動いて、なんでもなく会話できました。ところが年の暮れ、自分で呼吸ができないところまで一気に症状はすすみ、人工呼吸器を装着することになりました。
喉に呼吸器をつけられるとと、もう声を出して話すことができません。とりあえず動く手の甲でパソコンを使い、専用ソフトで入力して会話。それも会う度に、手も足も動作不能がすすみ、まばたき入力、ついに2年のうちには目も頬肉も動かせなくなりました。
私たちは何人かで連れだって行くたびに、彼のベッドを囲んで、近況や世間話、山の体験や四季の自然のうつろいなどを話しあって、時間をすごすようになりました。
まばたきができず、目に湿度補給のタオルをしていないと炎症を起こすH君。それでも、タオルを外した時間はその目は見えるし、話も聞こえるし、窓から流れる風のさわやかさも感じることはできるのです。ただ、意思を伝えることができない。
彼は、地元でボランティア活動にもとりくんできたのですが、そこで出会った高校生たち、教え子たち、そしてALS患者のボランティアのみなさんも、一定の期間ごとにやってきてくれました。
五感を使って、訪れる人から外の世界の様子を知るのを、楽しみにしていたのではないか、などと考えてきました。
事態が急変したのは、3月11日でした。
港に面した病院を、津波が襲ったのです。1階はすべて水につかり、非常用発電機も、外部電力も断たれました。
病室は3階。助かったけれども、人工呼吸器を動かしていた非常用バッテリーは4時間しかもちません。
病院の院長は山好きで、廊下や病室に山の写真をところかまわず掲示していた方でした。救急車で移送の段取りをとりつつ、院長は自分で手押しの呼吸器を動かし続けて6時間。市内の別の病院への移送に成功しました。
H君には、呼吸器が一時、止まったことも、移送も、ショックだったようです。1週間とおかずに重い肺炎を起こしました。ご家族から亡くなった報せが入ったのは、水曜日でした。
教師の仕事も、自然との付き合いも、いよいよ本格的に楽しめる年代でもあります。50歳を挟む時期でしたから、H君はほんとうに無念だったと思います。自分の体がどんどん動かなくなっていき、自分の意思表示も困難になっていくなかで、彼を囲んでの私たちの話をどんな思いで聞いていたのだろうと思います。私たちも、病院に会いに行って、帰り道に彼の気持ちのもどかしさを思って、つらくなるときもありました。
でも昨日、彼を送った帰り道、私はこう思おうと思いました。H君は、ようやく自由に飛びまわれる姿になれたのです。もう行きたいところ、再訪したかったところ、どこへでも彼は行けるんだと。
常磐線で水戸の偕楽園のそばを通る時は、桜が満開、そしてH君が好きだったコブシの花も満開でした。私たちは、「いつだったか見舞いの帰りも、こんな感じで桜が満開だったよな」と話しました。
私たちは、同年代の寮のOBが毎年集まって新年会をやってきました。H君のことは思い出したときは「やつは今、どこらへんに行ってるのかな」と語り合っていこうと思います。
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