|
|
あれ以来、毎週のように電話をかけあい、また宅急便で街のお菓子(おじさんは甘党)や当座の衣類などと、田老の浜の生鮮品(サバ、銀鮭、天然ワカメ)などを、まるで「物々交換」のように送り合ってきました。
船乗りを終えて漁師になった律儀なおじさん。去年、岩手山の登山のあとに泊った国見温泉の自炊棟で、部屋が隣り合ったのがご縁でした。
これまでのことは、下記に。
**岩手・国見温泉の湯治のおじさん、「まつも」くれたっけ・・・**
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-18379
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-category-11
仮設住宅を訪れる前に、田老の町の跡を見に行きました。堤防に上がって見回すと9割を超す家が失われており、見渡す限りの住居跡が広がっていました。(写真2枚目)
その景観のなかにいると、海に流されて行った人々の声が聞こえてくるようです。
海に面した新しい堤防は破壊され、横倒しになった一部分が見えるだけ。その内側の古い堤防が残っていました。津波はともに10mの高さがあった2つの堤防を超え、あるいは破壊しながら、入り江の奥の中学校(写真1枚目の奥の方)まで達し、校庭に避難していた生徒たちや住民も、裏山へ逃れました。
おじさんの家があったのは、新堤防の内側、旧堤防の外側。
目の前のホテルが4階まで津波にのまれたほどでしたから、家は何も残らず、奥さんもお孫さんも、見つけることもかないませんでした。
いま自分が立っている堤防を、軽々と乗り越す大津波の威力のすごさ。自然は、恐ろしいものだと思いました。
内側の堤防の脇に、3階建ての漁協ビルがありました。滑りとめの軍手を届けたけれど、ガレキの集積が一段落したいま必要なのは、防水性のあるゴム手袋なんだそうです。漁協や漁師さんたちには、漁船も漁具も養殖再開の資材も、魚市場も、それらの本格的な復旧のための公的な支援は、まだ開始されていません。
田老のワカメはブランド品で、歯ごたえと色を維持するには、事前の選別とともに、茹でた後に大量の海水にさらす工程がカナメになってきました。そのため、これまでは外海から良質の海水をパイプで引きこんでいましたが、それらの施設も、跡かたもなく破壊されています。
そのうえ、漁師の多くが家や家族を失い、生活の目途さえも立っていません。
仮設住宅で、湯治の宿いらい13ヵ月ぶりで、おじさんと再会。
奥様とお孫さんに、お線香をあげました。仏前の湯呑を洗い、お茶を入れて供える。お孫さんには好きだったヤクルトを必ず供える。こうしておじさんの一日が始まります。
仮設住宅は、壁に釘を打つことも禁じられているため、角材を組んで自立する棚を作っています。仮のお住まいとはいえ、きっちり、きれいに、整理整頓されていました。
一日、一日が、気持ちの定めどころを求める日々。おじさんは、うちのカミさんからの電話で、救われた思いがしました、と話しておられました。でも、私たちも、この状況のなかで、ご家族の思い出に立ち返りながら、清々しく身を正し、前に向かって生きていこうとする、おじさんの姿に、生きるということの大切な意味を教えてもらっているように思います。
9月23日午後、おじさんと再会を約束して、私たちは宮古から、焼石岳の登山口に車を走らせました。
こんばんはtanigawaさん
私も先月末に岩手県、釜石市唐丹に行ってきました。
3年前に東北ドライブ旅行途中に立ち寄って知り合った、漁協で鮭の捕獲と孵化、放流をしている人を訪ねたのです。
幸いその方の家族は無事でしたが、自宅、鮭の捕獲場、孵化場等、本当にすべてが津波にさらわれてしまったようです。
被災者の方々の生の声を聴くと、気軽に「がんばって」と言うよな声がかけられませんでした。
唐丹も田老も以前のようになるには何年かかるかわかりませんが、これからも忘れずに応援していきましょう。
divyasu21さん、コメントありがとうございます。
そうですね。私たちにできることは、少しのことですが、つながっている人がいるだけでも、大事なことだと思います。
それに、前を向いてすすもうとするお気持ちを、むしろ私の方でわけていただく感じもします。
それにしても復興というのは、個人の被災された方がたの立場から考えると、たいへんなことです。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する