ここに御世話になったことのあるO氏が登場している。禿げた! 坊主?
屋久島へは1996年秋と翌1997年夏に訪れている。
二度共に、海路で。
無論、沢登り目的で。
1996年は、同行氏の親戚(鹿児島大)の伝手の伝手を頼っての訪島で、教授の紹介とあって手厚く遇された。その同行N氏も今や金沢大准教授で隣県においでとは今検索して知った! 私の達ての希望で瀬切川と、定番の宮之浦川へ。N氏も私も癖ある同士なのでまあ沢中、色々とあった。下山時に縄文杉とも対面したけれど「ふ〜ん」てなもんだったが、無知と言うのはホント怖い。
伝手伝手のその先でO氏を紹介され、二本の遡行の合間に台風来襲とあってその間滞在させても貰った。写真にもあるがこの方の山岳蔵書は中々のモノで、1958年イタリア隊のガッシャーブルムIV峰初登頂記録本なんかもちゃんと差してあった。我々には「猫に小判の豚に真珠」だったがその沈殿中、三岳を飲りつつ沢の記録だけは熱読した。
1993年に「屋久島の山岳―近代スポーツ登山65年の歴史と現在」を上梓されていたことは承知していたので、酔いに任せて沢の記録に関してはちょっと情報収集に穴が有りますね、と生意気なことを申した記憶もある。
鹿児島に戻ったその足で、鹿児島〜那覇〜石垣島〜台湾〜香港〜上海〜大阪と船を乗り継いだ。台北では1995年秋〜1996年春に掛けての地球一周出だし時に同船したKとまさか!バッタリ会った(彼奴はその旅継続中の身だった)。チベットのラサで同宿した香港人とも街中でまさか!遭遇して、撮ってくれたくせに送ってくれていなかったカワイコちゃんとのツーショット写真を送ってくれと強く伝えたが、19年経った今も未だ届いてはいない。
翌1997年にも"とこしえの瘋癲野郎"石崎と再訪した。札幌→小樽〜京都・大阪〜志布志→鹿児島〜屋久島、と。あの頃は金は無いけど確かに時間だけは有った。今でこそ知り合いが何人か定住しているが、当時はそんな繋がりもなく、野宿と前年の伝手で凌ぎつつ、小楊子川の左俣に登っている。下山時擦れ違った観光客に依頼されて、初めて「デジカメ」なるものに触れた。当時は、遠い所だが屋久島なんて何時でも来られる、と思っていたらあれま、20年近くも開いてしまった。鹿児島に戻ってからは、ヒッチハイクを繰り返して九州四国の沢を登り継いだ。
私にデカイ木の伐倒を教えてくれた親方キヨッさは生粋の岐阜人で、別段他所に行きたいとも思わぬ御仁だが、屋久島には行ってみたいと休憩時に話したことがある。伐採師の一人として、屋久杉を見てみたいのだと。お連れして御恩返しをすることもあろうか。
屋久島を再訪するなら、落ノ川(おとすのかわ)【流石は小原さん、挙げて〼】と、安房川支流から太忠岳岩塔に登ってみたい。落ノ川源頭越えた、船行前山西の平坦地形は何だ!
あ、行ったことのない西海岸に「神様のクボ」にも。あ、(首)折れサバも食べていない。
しかし今日日の屋久島も随分と姦しそうなので、再訪となるとかなり腰が引ける。
屋久島は「海―川―山の直截な遡行ライン」を描くことの叶う貴重な場所として、私の中では今でも特別な島ではある。
一時、屋久島のような遡行フィールドが異国の地に無いものかと探ったり夢想したこともある。
世界遺産云々はさておき、それでもこの特別な場を感じようと意志のある訪問者にありのままの姿で震えるような感慨を与えてくれること自体に過去も未来もないだろう。それはそれは大きな「受け皿」だと思う、この屋久島は。
95年のお盆は彼女にフラれてヒマだったところに、カタオカ、カジタさんに誘われて渡りの船で小楊子川行きました。巨岩と怒涛で、人間が小人になったように感じる、他にない島ですね。やはりあれから行けてないです、いつでも来れるワなんて、そんなこともないですね何事も。
どの彼女?
ややや、これは小楊子川右俣記録ですな。黒味岳は貴重なピークだ。
記録拝見拝読して「あれ、梶田さんは?」と気付かない程肥えてますね、当時は。
片岡さんが福岡在住時代のことですか。大人の夏休み、といった感で良いなぁ。
ネズミの尻尾!
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する