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販路にも乗らない小冊子に掲載の文章だったので私自身は目くじら立てる程のこともなく、若気の至りでしでかしたP君に直接文句は申し立てなかったが、私同様に盗られたA氏がこれに噛みついた。A氏が書く文章は、過去の山行記録を水をも漏らさぬ丹念さで拾い上げ、反論の余地を与えない程のタイトな作文でその筋からは好まれ且つ、恐れられていた。
そのA氏曰く「当事者に断わりも無くあからさまに文章を盗用するとは如何なる了見か。かりそめにも貴君はT大に在籍したこともある様な身で、もし修士論文で同様の事をしてその事実が露見した際に何と申し開きをするのか?」と。
この一件は、我々三者が所属する同人内でメールのやり取りが暫く続いたが、当初から一貫して正式な謝罪は無く「えっ、俺そんなに悪い事したの?」で終わった事と記憶する。その時の一連のメール記録は今や残っていないので言い切れないけれど、大枠の話は合っているはずだ。推敲を重ねて捻った文章を何事も無かったかのように右手だけでコピペされるのは、やはり気持ちの良いものではない。それとも私の心が狭いからだろうか。しかし、メールの遣り取りが度重なる毎に彼の厚顔無恥振りに唖然としたものだったが、そんな今でも同人に籍を置き大手を振って歩いているところを見るに、やはり反省の意思は無かったようだ。
昨年問題になった五輪エンブレムの盗用疑惑が浮上した時に「ああ、こういうことか」と感じた。
矢面に立った某氏にとってデザインとは、アイデアは閃いたり苦労して捻り出す性質のものではなくあくまで参考にしたデザインを加工することなのだ、と。
デザイナー業界の内情に知悉しているわけでもないのでこれ以上は述べないが、世間ではこの行為を「盗用」と認識して糾弾した。本人は否定したようだが、詰まる所「コピペ」か否かが問われた。
デザイナーとして他の見習うべき斬新な作品群を目にしてアイデアの「肥やし」にするのは勿論許されることで、ただそれを自家薬篭中の物とするまでは手出しするべきではないだろう。特に商業ベースに乗せるとなるとそのモラルは厳しく問われるはずだ。
その手の行為はプロの世界にあらずとも、これほどまでにPCが普及すると各種論文やレポート等々で行われがちなことと想像する。いや、むしろ常習化、常態化しているのではとも思う。最近にはトランプ夫人のコピペ演説があったが、それをものともせずファーストレディになれるのだから世も寛容なことだ。
右手人差し指でドラッグして、右手中指で「コピー」を選択してまたその人差し指中指で「貼り付け」選択して助動詞やら整えればそれらしい作文が完成する。
我が学生時代を振り返っても、PCこそ無かったものの図書館で関連資料を漁り、評論家や科学者が書き連ねた文章を書き写す行為はした記憶がある。
ので、強いことは言えないけれど将来ある学生諸君は特にコピペはいけません。血と汗を流さなくては。
そんな若人には私の先輩がとあるコーナーで書く学生宛てメッセージを引用掲載しよう(あっ、これもコピペやん!)。
【学生へのメッセージ】
『時間を自由に使える学生期間中に何をどれだけするかで、その後の人生の幅や深みが決まります。しかし、様々な情報が飛び交う現代社会においては、それによる先入観が先行して、秘めた可能性を自らが閉ざしてしまい、せっかくの時間を有効に使わない人もいます。学問は、そうした先入観を取り払い、冷静に考え、適確に判断する能力を養うものです。大学では、何を勉強し、何を習得したかよりも、学問に触れて、本質を見抜く能力を養ってほしいです。』
エエ事言うなぁ。
実はここまできて何を書こうとしてきたかと言いますと、今週書いた作文中にとある方の以前の一文を「拝借」したことをここに白状する。
二十何年も前の文章で、私の記憶の中で生き延びてきた印象的な一文だったので、私の中で咀嚼した上で文にした。丸写しでもなくまたコピペでもないのでご容赦を。今朝、書架からその報告書を取り出して改めて読み返してみたが、似て非なる文だったことに安堵した。
こうして立場を逆にしてみると「改めてその言葉を自分の口の中で転がしてみたい欲」が満たされた思いがある。ソレ(そんな欲を喚起した文章であった、と)を思えばP君のしでかしたことについても、多少なり許されるところもあるかもね。
最後に、メール中にもあったA氏からP君へのズバッとバッサリ言葉を。
「P君、デリカシー無さ過斬りっ!」
おお、やっぱりそうですか。非なる文ですよ。今日は高校時代の先生で、授業中、山の報告書を読んでいるのを見つかったのに、鉢盛山について熱く語った古文のコバシュンの訃報をうけとり、一人ランプでぶどう酒を飲んで偲んでいます。大往生でしょう。3年前の卒業30周年の会にきて、「諸君、残された10年は思うより短いぞ」と昔ながらの声で語っていました。
人生の最期、いろいろ、こうあろうと考えても、突発だったり。しかしいつも死のことは考えていたい。
P.21古文教師はコバシュン先生でしたか。
そうですね、死があって生があると思えば常に意識する概念です。
そんな契機を多く与えてくれる山登りにこそ興味があります。
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